マトリックス効果の説明は、たいてい「液滴の表面や気相で、共存成分と分析種が電荷を奪い合う」という絵で終わります。この絵は間違いではありませんが、主因ではない可能性が高い、というのが機構を実験で調べた側の結論です。
Merck の薬物代謝部門が 2000 年に発表した研究の要旨は、こう書いています。
The data indicate that gas phase reactions leading to the loss of net charge on the analyte is not likely to be the most important process involved in ionization suppression. The results point to changes in the droplet solution properties caused by the presence of nonvolatile solutes as the main cause of ionization suppression in electrospray ionization of biological extracts. (データは、分析種の正味電荷を失わせる気相反応がイオン化抑制で最も重要な過程である可能性は低いことを示している。結果は、不揮発性溶質の存在によって液滴の溶液物性が変化することが、生体抽出物のエレクトロスプレーにおけるイオン化抑制の主因であることを指し示している) — King ら, J. Am. Soc. Mass Spectrom. 2000
この違いは実務に直結します。「電荷の奪い合い」が主因なら、対処は分析種を優位にすること(イオン化しやすくする)に向かいます。しかし主因が「不揮発性のものが液滴に混ざって物性を変える」なら、対処は不揮発性のものを減らすこと、あるいは分析種とそれを時間軸で離すことに向かいます。
そしてこの記事の主題は、その対処が思ったほど素直に効かない、という話です。
- 希釈の効果は希釈倍率の対数にしか比例しない。 初期抑制 80% を 20% 未満にするには 25〜40 倍が要る(Stahnke ら 2012)。
- リン脂質除去プレートは回収率と再現性を大きく改善したが、マトリックスファクターは液液抽出系と同等だった(Waters 自社データ)。
- 犯人はリン脂質だけではない。 コレステロールやトリアシルグリセロールも有意な抑制を起こし、単一の前処理法ですべての脂質クラスを除去することはできなかった(Ismaiel ら 2010)。
- 犯人は動く。 注入を重ねるうちにリン脂質の溶出時間が前へずれ、開発時には分離できていた分析種と重なった(Ismaiel ら 2007)。
- 最後の砦とされる安定同位体標識内標準にも穴がある。 重水素標識は同位体効果で保持時間がわずかにずれ、分析種と内標準が違う抑制を受けて比が崩れた(Wang ら 2007)。
この記事の読み方:マトリックス効果の基本的な定義、ポストカラムインフュージョンとマトリックスファクターの測り方、規制上の受容基準は、LC-MSトラブルシューティングとICH M10 バイオアナリシスで扱っています。本記事はその先の「原因物質をどう特定し、4つの対処がそれぞれどれだけ効くのか」に絞った深掘りです。1〜4節が犯人の特定、5〜8節が対処ごとの定量的な効き目、9〜11節が内標準・規制・実害、12節がチェックリストです。前処理そのものの選定は前処理・SPEカラムの選び方、イオン源を替えるという選択肢はイオン源の選び方をご覧ください。
1. 何が起きているのか ― 「奪い合い」より「液滴が変わる」

イオン化抑制の機構として挙げられるものは、大きく分けて次の3つです。
| 機構 | 内容 | King らの評価 |
|---|---|---|
| 気相のプロトン移動 | 気相で共存成分が分析種から電荷を奪う | 主因である可能性は低い |
| 液滴表面の競合 | 表面活性の高い成分が液滴表面を占有する | 寄与する |
| 液滴の溶液物性の変化 | 不揮発性溶質が粘度・表面張力・蒸発挙動を変える | 主因 |
3つ目が主因だとすると、抑制を起こすのは「イオン化しやすい共存成分」だけではありません。イオンにならなくても、不揮発性で液滴に残るものはすべて容疑者になります。塩、糖、タンパク質の残り、そして——後で見るように——投与製剤の添加剤まで。
Merck の別の研究(Tong ら 2002)は、投与ビヒクルの添加剤による干渉の機構を「気相のプロトン移動反応の競合と、投与添加剤の高い粘度の両面から論じる」と述べています。粘度が機構の説明に登場するのは、まさに King らの結論と同じ方向です。
用語補足:マトリックス効果は共存成分によって分析種の応答が変わる現象全般、イオン抑制はそのうち応答が下がる方向のもの。増強(enhancement)も起こります。絶対マトリックス効果は純溶媒に対する応答比、相対マトリックス効果はマトリックスのロット間・個体間でその比がどれだけばらつくかを指します(Matuszewski ら 2003)。定量の信頼性を壊すのは、多くの場合後者です。
2. まず犯人を特定する ― ポストカラムインフュージョンと m/z 184

対処を選ぶ前に、どこで、何によって抑制されているかを知る必要があります。手段は2つあります。
ポストカラムインフュージョン ― 「どこで」を見る
分析種の標準溶液をカラムの後から一定流量で流し込みながら、ブランク抽出物を注入します。分析種は常に一定量供給されているのでシグナルは平坦になるはずで、凹んだ時間帯が抑制の起きている時間帯です。
この手法を確立した Bonfiglio ら(1999)は、同じ系で前処理法を比べ、さらに重要な観察を報告しています。
In all cases, ACN protein precipitation samples showed the greatest amount of ESI response suppression while liquid-liquid extracts demonstrated the least. In addition, the three test compounds, phenacetin, caffeine, and a representative Merck compound, demonstrated that ESI response suppression is compound dependent. Suppression was greatest with caffeine, the most polar analyte, and the smallest for the Merck compound, the least polar analyte.
抑制は化合物によって違い、極性が高い分析種ほど強く受ける。これは偶然ではありません。極性が高ければ逆相では早く溶出し、塩や親水性の内因性成分が溶出する領域と重なるからです。5節で見る対処は、まさにこの重なりを外す話になります。
m/z 184 ― 「何によって」を見る
血漿で最大の容疑者はグリセロホスホコリン(GPCho)類のリン脂質です。これらは ESI で特徴的な m/z 184 のフラグメント(ホスホコリンの頭部)を出すので、プリカーサーイオンスキャンや m/z 184 の MRM でリン脂質の溶出位置を丸ごと可視化できます。
Ismaiel ら(2007)は、ヒト血漿中のヒドロコドンとプソイドエフェドリンの分析でこれを実行し、次のように報告しています。
Post-column infusion studies showed that the ion suppression for both drugs and internal standards correlated with the elution of phospholipids. HPLC conditions were adjusted to chromatographically resolve the peaks of interest from the phospholipids.
分析種と内標準の抑制が、リン脂質の溶出と相関した。だから HPLC 条件を調整してリン脂質から分離した——ここまでは教科書どおりです。問題はこの後に起きます(4節)。
3. 犯人はリン脂質だけではない

「血漿のマトリックス効果=リン脂質」という理解は、半分正しくて半分危険です。
Ismaiel ら(2010)は、リン脂質 8 クラス・モノ/ジ/トリアシルグリセロール・コレステロール・コレステロールエステルを代表する 13 化合物を選び、ポストカラムインフュージョンで抑制の強さを比べました。さらに、ヒト血漿・赤血球中の典型的な濃度で重み付けした %CNSF(Concentration Normalized Suppression Factor)という指標を定義して、実際の寄与度で並べ直しています。結論はこうです。
Endogenous lipid components other than GPChos, such as cholesterols and triacylglycerols, may result in significant matrix effects and should be monitored during method development. No single extraction procedure was efficient in removing all of the various lipid components. (GPCho 以外の内因性脂質、たとえばコレステロールやトリアシルグリセロールも有意なマトリックス効果を起こしうるので、メソッド開発中は監視すべきである。さまざまな脂質成分のすべてを効率よく除去できる単一の抽出手順は存在しなかった。)
この論文では、除タンパク・液液抽出・支持体液液抽出(SLE)・SPE・HybridSPE-precipitation の 5 法について、これら脂質の抽出回収率が比較されています。どれか1つで全部片づく前処理は無い、というのが実測の答えです。
内因性でない犯人 ― 投与製剤の添加剤
もうひとつ、見落とされやすい容疑者があります。動物に投与した製剤のビヒクル(添加剤)そのものです。
Merck の Tong ら(2002)は、PEG400・プロピレングリコール・Tween 80・ヒドロキシプロピル-β-シクロデキストリンといった投与ビヒクル添加剤が LC/MS 定量の正確さに与える影響を調べました。PEG400 をプローブとして、経口・静脈内投与したラットの血漿中の添加剤の濃度時間プロファイルまで取っています。結果は深刻です。
These excipient plasma concentrations can result in a 2-5-fold increase in calculated plasma clearance values when the excipient interferes with the quantitation of the dosed compound. This can result in false rejection of a compound in a drug discovery screen. (これらの添加剤の血漿中濃度は、添加剤が被験化合物の定量に干渉する場合、算出される血漿クリアランス値を 2〜5 倍大きくしうる。その結果、創薬スクリーニングで化合物が誤って不採用になることがある)
測定の誤差が、化合物の生き死にを決めてしまう。同論文が挙げた対処は、効率的な試料精製と選択性の高いクロマトグラフィーの組み合わせ、そして状況によっては負イオンモードを使うか、投与ビヒクルを変える(PEG400 をプロピレングリコールに置き換える)ことでした。分析法の外側に対処があるという点が、この事例の面白いところです。
2026 年の総説(Crit. Rev. Anal. Chem.)も、干渉物質としてリン脂質・タンパク質・塩・代謝物と並べて製剤添加剤(formulation excipients)を明示的に挙げています。四半世紀たっても、この問題は現役です。
4. 犯人は動く ― 注入を重ねると溶出位置がずれる

ここが本記事で最も実務的な指摘です。
Ismaiel ら(2007)は、リン脂質を分離できるよう HPLC 条件を調整しました。しかし、そこで終わりませんでした。
Upon repeated injection, the elution time of the phospholipids decreased while elution of the analyte peaks remained unchanged. This resulted in co-elution and significantly affected peak shape and internal standard response for the analytes. It was decided to use the phospholipid fragment to monitor this matrix effect in validati[on]… (注入を繰り返すうちにリン脂質の溶出時間は早くなった一方、分析種のピークの溶出は変わらなかった。その結果、共溶出が生じ、ピーク形状と内標準の応答が著しく影響を受けた。そこで、バリデーションにおいてこのマトリックス効果を監視するためにリン脂質のフラグメントを使うことにした)
メソッド開発の時点では分離できていたのに、注入を重ねるとリン脂質だけが前へ動いてきて、分析種と重なった。カラムに蓄積したリン脂質が保持を変えていくためです。分析種の保持時間は変わらないので、システム適合性の通常のチェック(保持時間、理論段数、ピーク面積の RSD)を見ているだけでは気づけません。
だから同論文は、m/z 184 のフラグメントをバリデーション中の監視項目として使うという判断に至りました。これは実務にそのまま持ち込める結論です。
- マトリックス効果は一度測って終わりの項目ではない
- m/z 184 のトレースを取り続けて、リン脂質の溶出位置が動いていないかを見る
- 動くなら、洗浄プログラムやカラム交換の頻度を、その動きに合わせて決める
5. 対処①クロマトで逃がす ― 初期有機比を下げるだけで変わることがある

抑制領域が分かれば、まず試すべきは分析種をそこから外すことです。前処理を変えるより安く、速い場合があります。
Waters の技術資料に、きれいな実例があります。リン脂質除去プレート(Ostro)で処理した血漿抽出液を測ったところ、極性の高い分析種(プロカインアミドと N-アセチルプロカインアミド)でマトリックスファクターが大きく振れました。これは Ostro がパススルー型で、塩などの親水性成分は素通りするためです。
対処は前処理ではなく、グラジエントでした。
…instead of starting at 20% mobile phase B, the gradient was changed to start at 5% mobile phase B. In the later case, the polar analytes do not co-elute with the hydrophilic interferences (suspected salts). As expected, the matrix factors for these analytes (procainamide and N-acetyl procainamide) were reduced to 1±0.15 as opposed to 1±0.5 before the change in the initial gradient conditions. (初期移動相 B を 20% から 5% に変えた。こうすると極性分析種は親水性の干渉物(塩と推定)と共溶出しない。予想どおり、これらの分析種のマトリックスファクターは変更前の 1±0.5 から 1±0.15 に低下した)
初期有機比を 20% から 5% に下げただけで、ばらつきが 3 分の 1 以下になった。極性化合物を保持させて溶媒フロントから引き離す、という単純な操作です。
逆に言えば、「前処理をきれいにしたのにマトリックスファクターが暴れる」ときは、前処理をさらに追い込む前にグラジエントの入口を疑う価値があるということです。
6. 対処②前処理で除く ― 前処理法ごとの効き目と限界

前処理法の優劣は、複数の独立した研究がほぼ同じ順序を出しています。
Bonfiglio ら(1999):メチル-t-ブチルエーテル液液抽出、Oasis と Empore の SPE、アセトニトリル除タンパクを比較し、「すべての場合において、アセトニトリル除タンパクが最も大きな抑制を示し、液液抽出が最も小さかった」。
Chambers ら(2007):除タンパク(PPT)、液液抽出(LLE)、純陽イオン交換 SPE、逆相 SPE、混合モード SPE を系統的に比較し、プリカーサーイオンスキャンと MRM でマトリックス成分の量そのものを測定しました。
PPT is the least effective sample preparation technique, often resulting in significant matrix effects due to the presence of many residual matrix components. Reversed-phase and pure cation exchange SPE methods resulted in cleaner extracts and reduced matrix effects compared to PPT. The cleanest extracts, however, were produced with polymeric mixed-mode SPE(逆相とイオン交換の両方の保持機構を持つもの).
順序としては 除タンパク < 逆相 SPE・陽イオン交換 SPE < 混合モード SPE。ただし Chambers らは Waters の所属であり、混合モード SPE は同社の主力製品でもあるので、その前提で読む必要があります。とはいえ Bonfiglio ら(Merck)の独立した結果とも順序は矛盾しません。
リン脂質除去プレートは何を改善して、何を改善しないか
近年よく使われるリン脂質除去プレート(パススルー型)について、Waters 自身のデータが率直です。同社の Ostro を支持体液液抽出(SSLE)と比較した結果は次のとおりでした。
| 項目 | Ostro(リン脂質除去プレート) | SSLE(支持体液液抽出) |
|---|---|---|
| 回収率 | 全分析種で >80% | 極性分析種で 60% 程度、ナプロキセンは 10% 未満 |
| 回収率の RSD(平均) | 2% | 8% |
| バッチ間再現性(平均 RSD) | 4% | 15% |
| マトリックスファクター | 同等 | 同等 |
| 処理時間 | SSLE より 60% 速い | — |
| 試料量 | 50〜350 µL に対応 | 固定量が必要 |
回収率と再現性は明確に改善したが、マトリックスファクターは同等。さらに Ostro は極性分析種で干渉が大きめ(塩が素通りするため)、SSLE はプロプラノロール・プロトリプチリン・アミトリプチリンで干渉が大きめ、という得手不得手の違いが出ています。
リン脂質除去プレートは「リン脂質を除く」道具であって、「マトリックス効果を消す」道具ではありません。リン脂質が主犯でない系では、効果は限定的です。3節で見たとおり、犯人は塩やコレステロールや添加剤かもしれないのですから。
7. 対処③希釈する ― 効果は対数でしか効かない

「希釈すればいい」は正しいのですが、どれだけ希釈すればよいかが問題です。ここに決定版の研究があります。
ドイツ連邦リスク評価研究所(BfR)の Stahnke ら(2012, Anal. Chem.)は、アボカド・紅茶・オレンジ・ルッコラの 4 種類の残留農薬フリー抽出液に 39 種の農薬を添加し、156 の農薬/マトリックス組み合わせについて、最大 1000 倍まで 10 段階の希釈でマトリックス効果を測りました。
結論は、単純だが多くの人の直感と違います。
The results obtained indicate a linear correlation between matrix effects and the logarithm of matrix concentration (or dilution factor) until the zero-effect level of further dilution was reached. Using the logarithmic equations, it could be shown that a dilution of extracts by a factor of 25-40 reduces ion suppression to less than 20% if the initial suppression is ≤80%. For stronger matrix effects or complete elimination of suppression, higher dilution factors were needed. (マトリックス効果は、希釈しても効果がゼロになる水準に達するまで、マトリックス濃度(すなわち希釈倍率)の対数と直線相関する。この対数式を使うと、初期抑制が 80% 以下なら、25〜40 倍の希釈でイオン抑制を 20% 未満にできることが示された。より強いマトリックス効果や、抑制の完全な除去には、さらに高い希釈倍率が必要だった)
対数でしか効かないというのが要点です。2 倍希釈でマトリックス効果が半分になるわけではありません。実用的な水準まで落とすには数十倍が必要で、そのぶん感度は素直に犠牲になります。希釈で解決できるのは、もともと感度に余裕がある系だけです。
なお同論文は、この相関が2 つの装置プラットフォームで共通だった一方、抑制の程度そのものは装置間でわずかに違ったとも報告しています。「うちの装置では大丈夫だった」が他所で成り立たない理由の一端です。
希釈しても残るもの ― 相対マトリックス効果
希釈は絶対マトリックス効果を減らしますが、ロット間・個体間のばらつき(相対マトリックス効果)は別問題です。
Sulyok ら(2020, Anal. Bioanal. Chem.)は、7 種類の食品マトリックスについて 500 種類超の微生物代謝物を希釈系(dilute-and-shoot)で測る方法をバリデーションしました。数字が示唆的です。
- 見かけの回収率(apparent recovery)が 70〜120% に収まったのは、全分析種の 53〜83%(マトリックスによる)
- しかし抽出回収率を考慮すると、この割合は 84〜94% に上がる
つまり 53〜83% と 84〜94% の差が、そのままマトリックス効果の寄与です。抽出はうまくいっているのに、イオン化の段階で数字がずれている。
さらに——
- 併行精度(異なる個体由来の 7 検体)で RSD ≤20% を満たしたのは 85〜97%、室内再現精度(同一試料の 7 反復)では 93〜94%。この差が相対マトリックス効果の寄与を浮き彫りにする
- マトリックスのペア間で見かけの回収率に有意差があった分析種は半数超。一方、抽出回収率はマトリックス間でよく一致した
- 見かけの回収率とマトリックス効果は、イチジクとトウモロコシで濃度の 2〜3 桁にわたって一定だった
同論文はこの結果から、「定量下限付近の回収率を何百もの分析種について手作業で検証することに膨大な時間をかけるより、バリデーションでは相対マトリックス効果の調査にもっと重点を置くべきだ」と結論しています。
8. 対処④イオン化の側を変える

分離でも前処理でも希釈でも足りないなら、イオン化そのものを変える手があります。
イオン源を替える。 大気圧化学イオン化(APCI)は ESI よりマトリックス効果を受けにくいことが古くから報告されています(Schuhmacher ら 2003)。ただし同じ論文が、それでも ESI を第一選択にする理由も書いています——血漿には熱に弱い未知の代謝物がありうるので、約 400 ℃ の気化を伴う APCI では壊れてしまう。この判断構造はイオン源の選び方で詳しく扱いました。
極性を替える。 Tong ら(2002)は、投与添加剤の干渉に対して負イオンモードを使うことを対処のひとつに挙げています。PEG やポリマー系添加剤は正イオンでアダクトを作りやすいので、負イオンに回れば干渉から抜けられる場合があります。
流量を下げる。 ナノ ESI 領域では、そもそも分析種どうしの抑制が消えます。Schmidt らは 20 nL/min 未満の極低流量では分析種の抑制が実質的に消失することを示しました。イオン抑制は液滴の分裂過程での分配に由来するので、初期液滴が十分小さければ起きようがない、という理屈です。マイクロフロー化は感度と抑制の両方に効く投資です。
9. 最後の砦の穴 ― 安定同位体標識内標準が効かないとき

ここまでの対処をすべて尽くしても抑制が残るなら、安定同位体標識内標準(SIL-IS)で比を取って打ち消すのが定石です。分析種と内標準は化学的にほぼ同一だから、同じだけ抑制を受け、比では消える——はずです。
その前提が崩れた実例が、GlaxoSmithKline のバイオアナリシス部門から報告されています(Wang, Cyronak, Yang, 2007)。
カルベジロールのエナンチオマーをヒト血漿で定量する LC/MS/MS 法で、重水素標識の内標準を使っていたところ、市販ヒト血漿の特定の 2 ロットでのみ、分析種/内標準のピーク面積比が変わったのです。移動相での希釈やポストカラムインフュージョンを含むいくつもの実験の結果、原因が特定されました。
For the first time, it was clearly demonstrated that a slight difference in retention time between the analyte and the SIL internal standard, caused by deuterium isotope effect, has resulted in a different degree of ion suppression between these two analogues. This difference was significant enough to change the analyte to internal standard peak area ratio and affect the accuracy of the method. (重水素同位体効果によって生じた分析種と SIL 内標準のわずかな保持時間の差が、この 2 つの類似体の間でイオン抑制の程度の違いをもたらすことが、初めて明確に示された。この差は分析種/内標準のピーク面積比を変え、分析法の真度に影響を与えるのに十分な大きさだった)
重水素置換すると保持時間がわずかに(多くは分析種より早く)ずれる。抑制のプロファイルが急峻な領域では、そのわずかなずれが「分析種と内標準が違う抑制を受ける」状況を作ります。ロットによってはそれが顕在化する。
実務上の含意は明確です。
- 重水素標識 IS を使うなら、分析種と内標準の保持時間が本当に一致しているかを確認する。わずかでもずれているなら、そこは抑制プロファイルが平坦な領域か?
- ¹³C・¹⁵N 標識は同位体効果が小さく、この問題を回避しやすい。コストは上がりますが、抑制の激しい系では合理的な投資です。
- SIL-IS を入れたこと自体は、マトリックス効果を評価しなくてよい理由にならない。 4節で見たとおり、そもそも内標準の応答自体がリン脂質の溶出とともに動きます。
10. 「マトリックスファクター」は ICH M10 の要求ではない

実務でよく聞く言い方に「ICH M10 が求めるマトリックスファクター」があります。これは正確ではありません。
ICH M10 の本文(日本語公定訳)を全文検索すると、「マトリックスファクター」という語も、「ファクター」という語も、「正規化」という語も、一度も現れません。
M10 §3.2.3 が実際に要求しているのは、次の手続きです。
マトリックス効果は、少なくとも 6 個体/ロットから得られたマトリックスを用いて、それぞれ調製した低濃度及び高濃度の QC 試料を少なくとも 3 回繰り返し分析し評価する。評価した各マトリックスの個体/ロットについて、真度は理論値の ±15% 以内、かつ精度(%CV)は 15% 以下でなければならない。
つまり M10 が見ているのはロットごとの真度と精度であって、MF という比の計算でも、その CV でもありません。これは 1 節で触れた相対マトリックス効果——ロット間でどれだけばらつくか——を直接測る設計になっています。
では MF はどこから来たのか。Matuszewski ら(2003)の要旨が、その空白を説明しています。
The current regulatory requirements include the need for the assessment and elimination of the matrix effect in the bioanalytical methods, but the experimental procedures necessary to assess the matrix effect are not detailed. (現行の規制要件はバイオアナリシス法におけるマトリックス効果の評価と除去の必要性を含んでいるが、マトリックス効果を評価するのに必要な実験手順は詳述されていない)
規制は「評価しろ」と言うが手順は書かない。だから業界が手順を作った。MF とその IS 正規化値は、この空白を埋めるために普及した優れた実務であって、規制条文そのものではありません。
この区別は実害を伴います。よく引かれる「IS 正規化マトリックスファクターの CV は 15% 以下」という基準は、M10 の規定ではなく、失効した旧 EMA ガイドライン(EMEA/CHMP/EWP/192217/2009 Rev.1 Corr.2)§4.1.8 に由来します(この点は前処理・SPEカラムの選び方で条文を全文検索して確認しました)。規制対応の文書に「M10 の要求として」と書けば、根拠のない記述になります。
なお M10 §7.3 の回収率に関する記述は、内標準との関係を端的に述べていて、9 節の議論とつながります。
分析対象物質の回収率は 100% である必要はないが、分析対象物質及び IS(使用する場合)の回収率は一定である必要がある。
M10 の要求内容の全体像はICH M10 バイオアナリシスにまとめています。
11. マトリックス効果が答えを変えた2つの実例

数値がずれるだけなら再測定すれば済みます。問題は、ずれたまま意思決定に使われることです。
実例1:クリアランスが 2〜5 倍過大評価され、化合物が誤って落とされた。 Tong ら(2002)の PEG400 の事例です。投与ビヒクルの添加剤が血漿中に残り、極性の高い被験化合物の定量に干渉する。分析種の応答だけが下がるので、見かけの血漿中濃度が低く出る。濃度が低ければ AUC は小さく、クリアランスは大きく算出される。「消失が速すぎる化合物」として、創薬スクリーニングで不採用になる。分析の誤差が、化合物の生死を決めています。
実例2:静脈内投与後の血漿中濃度が最大 5.5 倍過小評価された。 Bayer の薬物動態部門の報告(Schuhmacher ら 2003)です。除タンパク処理した血漿試料でイオン抑制が起き、静脈内投与後の血漿中濃度が最大 5.5 倍低く出た。結果として AUC が過小評価され、血漿クリアランスが過大に算出され、開発候補化合物の選抜に影響した。
同論文が挙げた対処は、驚くほど地味です。除タンパク上清を10 倍・50 倍と段階希釈し、検量線用試料と QC 試料も含めて同じ扱いにする。これでマトリックス効果を認識でき、除去できた。7 節で見た「対数でしか効かない」という制約の中で、10〜50 倍という数字は理にかなっています。
2 つの事例に共通するのは、どちらも「装置が壊れた」わけでも「メソッドが動かない」わけでもないことです。クロマトグラムはきれいで、精度も出て、バリデーションも通る。それでも答えが違っている。だから 4 節の「監視し続ける」という結論に戻ります。
12. 実務のチェックリスト
メソッド開発時
- ポストカラムインフュージョンで抑制プロファイルを描く。 どの時間帯が危険かを図にする(Bonfiglio ら 1999)。
- m/z 184 のプリカーサーイオンスキャン/MRM でリン脂質の溶出位置を重ねる。 分析種と重なっていないかを見る(Ismaiel ら 2007)。
- リン脂質以外も疑う。 コレステロール、トリアシルグリセロール、塩、そして投与ビヒクルの添加剤(Ismaiel ら 2010、Tong ら 2002)。
- 抑制領域から分析種を外せないか、まずクロマトで試す。 初期有機比を下げるだけで改善することがある(Waters, MF 1±0.5 → 1±0.15)。
- 前処理は「除タンパク<逆相/イオン交換 SPE<混合モード SPE」を出発点にする。 ただし単一の方法で全脂質クラスは除けない。
- 希釈するなら数十倍を覚悟する。 初期抑制 80% を 20% 未満にするには 25〜40 倍(Stahnke ら 2012)。感度に余裕がなければ別の手を。
- 重水素標識 IS なら、分析種との保持時間の一致を確認する。 ずれるなら ¹³C・¹⁵N 標識を検討する(Wang ら 2007)。
バリデーション時
- M10 §3.2.3 の要求は「6 個体/ロット × 低濃度・高濃度 QC × 3 回以上、各ロットで真度 ±15%・精度 15%CV」。 ロットごとの判定であって、平均での判定ではない。
- MF や IS 正規化 MF は優れた実務だが、M10 の条文上の要求ではない。 規制文書に「M10 の要求として」と書かない。
- 溶血性・高脂質性マトリックスについてはケースバイケースで追加評価する(M10 §3.2.3)。
- 相対マトリックス効果に重点を置く。 定量下限付近の回収率の作り込みより、ロット間のばらつきの調査のほうが実質的(Sulyok ら 2020)。
ルーチン運用時
- m/z 184 のトレースを取り続ける。 リン脂質の溶出時間は注入を重ねると前へずれる。分析種の保持時間は変わらないので、通常のシステム適合性では検出できない(Ismaiel ら 2007)。
- カラム洗浄と交換の頻度を、そのずれの速度に合わせて決める。
- 装置が変われば抑制の程度も変わる。 同じ相関則でも、プラットフォーム間で程度は違った(Stahnke ら 2012)。
まとめ
- イオン化抑制の主因は「気相での電荷の奪い合い」ではない。 不揮発性溶質が液滴の溶液物性を変えることが主因だと、機構研究は結論している(King ら 2000)。だからイオンにならない成分も容疑者になる。
- 抑制は化合物依存で、極性が高い分析種ほど強く受ける(Bonfiglio ら 1999)。
- 犯人はリン脂質だけではない。 コレステロールもトリアシルグリセロールも有意な抑制を起こし、単一の抽出法ですべての脂質クラスは除けない(Ismaiel ら 2010)。投与ビヒクルの添加剤も犯人になる(Tong ら 2002)。
- 犯人は動く。 注入を重ねるとリン脂質の溶出時間が前へずれ、開発時には分離できていた分析種と重なる。分析種側は動かないので通常のシステム適合性では気づけない。m/z 184 を監視し続ける(Ismaiel ら 2007)。
- クロマトで逃がすのは安くて速い。 初期有機比を 20%B から 5%B に下げただけで、極性分析種の MF が 1±0.5 → 1±0.15 になった(Waters)。
- 前処理の序列は除タンパク<逆相/イオン交換 SPE<混合モード SPE。 リン脂質除去プレートは回収率(>80%、RSD 2%)とバッチ間再現性(4% 対 15%)を大きく改善するが、マトリックスファクターは液液抽出系と同等だった。
- 希釈の効果は希釈倍率の対数にしか比例しない。 初期抑制 80% を 20% 未満にするには 25〜40 倍(Stahnke ら 2012)。感度と正面から交換になる。
- 希釈しても相対マトリックス効果は残る。 500 種超の多成分法では、見かけの回収率が基準内に収まったのは 53〜83% だが、抽出回収率を考慮すれば 84〜94%。その差がマトリックス効果(Sulyok ら 2020)。
- 安定同位体標識内標準は万能ではない。 重水素同位体効果による保持時間のわずかなずれが、分析種と内標準に違う抑制をもたらし、真度を損なった実例がある(Wang ら 2007)。¹³C・¹⁵N 標識のほうが安全。
- ICH M10 に「マトリックスファクター」という語は一度も出てこない。 要求は「6 個体/ロット × 低濃度・高濃度 QC × 3 回以上、各ロットで真度 ±15%・精度 15%CV」。MF は空白を埋めた業界実務であって条文ではない。
- 誤差は意思決定を変える。 クリアランスが 2〜5 倍過大評価されて化合物が誤って落とされた例、血漿中濃度が最大 5.5 倍過小評価された例が、どちらも製薬企業から報告されている。
用語集
- マトリックス効果:目的成分以外の共存成分によって応答が変化する現象。減る方向がイオン抑制、増える方向がイオン増強。
- 絶対マトリックス効果/相対マトリックス効果:前者は純溶媒に対する応答の比、後者はその比がマトリックスのロット間・個体間でどれだけばらつくか(Matuszewski ら 2003)。定量の信頼性を壊すのは主に後者。
- ポストカラムインフュージョン:分析種の標準溶液をカラムの後から一定流量で注入しながらブランク抽出物を分析し、シグナルの凹みで抑制の起きている時間帯を可視化する手法。
- m/z 184:グリセロホスホコリン類が ESI で生じる特徴的なフラグメント(ホスホコリンの頭部)。この質量を追うことで血漿中のリン脂質の溶出位置をまとめて監視できる。
- %CNSF(Concentration Normalized Suppression Factor):内因性脂質の抑制の強さを、ヒト血漿・赤血球中の典型濃度で重み付けして比較するために定義された指標(Ismaiel ら 2010)。
- SIL-IS(安定同位体標識内標準):²H・¹³C・¹⁵N などで標識した分析種そのもの。抑制を同じだけ受けることで比を取れば打ち消せる、という前提で使う。
- 重水素同位体効果:²H 置換によって分子の物性がわずかに変わる効果。逆相 LC では重水素体のほうがわずかに早く溶出することが多く、抑制プロファイルが急峻な領域では真度に影響しうる。
- リン脂質除去プレート(パススルー型):除タンパクと同時にリン脂質を捕捉するプレート。タンパクとリン脂質は除けるが、塩などの親水性成分は素通りする。
- 投与ビヒクル添加剤:PEG400、プロピレングリコール、Tween 80、ヒドロキシプロピル-β-シクロデキストリンなど、投与製剤に使われる賦形剤。血漿中に残って干渉することがある。
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出典
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- Waters Corporation「Advantages of Ostro Pass-through Sample Preparation Versus Solid Supported Liquid Extraction (SSLE)」Application Note(2014)
- ICH M10「生体試料中薬物濃度分析法のバリデーション及び実試料分析」Step 4(2022-05-24)/厚生労働省 日本語版(§3.2.3 マトリックス効果、§7.3 回収率)
- H.A.H. Barzani et al.「Matrix Effects and Analytical Instability in Pharmaceutical Bioanalysis: Current Challenges and Future Directions」Crit. Rev. Anal. Chem. 2026(オンライン先行公開). doi:10.1080/10408347.2026.2698067(PMID 42421221)
制作メモ:本記事は NotebookLM のディープリサーチで 116 件のソースを収集し、そのうえで編集側が原典を開いて検証したうえで執筆しました。
採用しなかった数値を記録しておきます。(1) 取り込まれたソースのうち 1 件は URL を持たない AI 生成の合成文書("Analytical Characterization and Quantitative Mitigation of Matrix Effects and Ion Suppression in LC-MS/MS Bioanalysis")で、前処理法別のリン脂質除去率と絶対マトリックスファクターの一覧表(除タンパク <20%/MF 0.20〜0.60、混合モード SPE 80〜95%/MF 0.80〜0.98、リン脂質除去プレート >99%/MF 0.95〜1.05 など)と、希釈倍率別の抑制減少率の表(2 倍で 20〜40% 減、5 倍で 60〜80% 減…)を丸ごとこれに帰属させてきたため、両方とも除外しました。特に後者は、原著(Stahnke ら 2012)が実測で示した「マトリックス効果は希釈倍率の対数と直線相関する」という関係と整合しません。本文の希釈の記述は原著の数値だけで組み直しています。(2) 投与添加剤の事例について、合成文書は「Cremophor EL または PEG400 が血漿中に 0.50〜1.0 mg/mL 残留し、2〜10 倍の抑制を起こした」と述べていましたが、原著(Tong ら 2002)を開くと残留濃度も抑制倍率も書かれておらず、記載があるのはクリアランスの 2〜5 倍の過大評価でした。本文はそちらを採っています。(3) リン脂質除去プレートの性能について、本文では Waters 自社データであることを明記したうえで、同社が自ら「マトリックスファクターは支持体液液抽出と同等」と書いている点も併せて示しました。
図解は生成した 13 枚を 1 枚ずつ確認し、第12節ぶんの 1 枚に文字の重複(「トレースス」)があったため、その 1 枚だけ掲載を見送っています。
一次資料の取得については、査読論文の書誌と要旨は PubMed(NCBI E-utilities)で逐語確認し、ICH M10 は日本語公定訳 PDF を PyMuPDF で開いて全文検索しました(「マトリックスファクター」「ファクター」「正規化」はいずれも出現回数 0)。Waters の技術資料は NotebookLM の source fulltext 経由で本文を取得して検証しています。