イオンモビリティ質量分析(IM-MS)は、m/z に「形・大きさ」という軸を足す技術として、この10年で一気に普及した。4D プロテオミクス、脂質の二重結合位置、糖鎖の異性体 ―― m/z だけでは分けられなかったものが分かれる。
ところが、その軸の目盛である 衝突断面積(CCS, collision cross section) が何なのかは、しばしば誤解されている。「イオンの断面積を測った値」だと思われがちだが、そうではない。分野の報告ガイドラインは、一行でこう述べている。
ion mobility measures mobilities, not surfaces (イオンモビリティが測っているのは移動度であって、表面積ではない)
— Gabelica ら, Mass Spectrom. Rev. 2019;38(3):291-320
これは言葉遊びではない。移動度 K は SI にトレーサブルだが、CCS はそうではない。この違いから、「較正は CCS ではなく移動度で行うべき」「データベースには CCS だけでなく K₀ も載せるべき」という、きわめて実務的な勧告が導かれる。
同じ種類の罠が分解能にもある。時間軸で測った分解能と CCS 軸で測った分解能は別物で、装置によって値が変わる。カタログの数字を比較する前に、どちらで測ったのかを見る必要がある。
本記事は、この「測っているもの」と「導かれたもの」の区別を軸に、IM-MS を整理する。
この記事の読み方
- 入門者:1〜5 節。何を測っているのか、5つの方式はどう違うのか。
- これから使う人:6〜11 節が本題。分解能の読み方、較正、CCS がどこまで同定に使えるか。
- 機器を選ぶ人:12〜13 節。2026年の装置動向。
- 急ぐ人:14 節のチェックリスト。
数値はすべて原典(論文本文・ガイドライン PDF・メーカー公式リリース)を開いて確認している。裏が取れなかったものは制作メモで明示した。
1. イオンモビリティは「面積」を測っていない
原理から確認する。イオンモビリティは、緩衝ガスで満たされた空間をイオンが電場に駆動されて移動する速さを測る。大きく広がったイオンはガス分子と衝突しやすく遅い。コンパクトなイオンは速い。この「速さ」が 移動度 K である。
K は測定量として素直だ。ドリフト速度 v_d と電場 E を測れば K = v_d / E で求まる。ガイドラインはこの点を明示している。
while ion mobility (K or K₀) values can be traced back to the SI (its SI base unit is the A s² kg⁻¹) because the measurement consists in determining v_d and E, the CCS values cannot. The SI base unit of the CCS is the square meter, but ion mobility experiments do not measure areas. The CCS is a derived quantity. (移動度 K あるいは K₀ の値は、v_d と E を決定する測定であるから SI にトレーサブルである。しかし CCS の値はそうではない。CCS の SI 基本単位は平方メートルだが、イオンモビリティ実験は面積を測っていない。CCS は導出量である)
CCS は、K から数学モデルを通して計算される。用いられるのは Mason–Schamp 式(メイソン–シャンプ式)で、ガイドラインはこれを「低電場イオンモビリティの基本式」(Revercomb & Mason, 1975)と呼んでいる。
CCS = (3/16)·(2π/μ)^(1/2)·(ze / (k_B T)^(1/2))·(1 / N₀K₀) の形をとり、μ はイオンとガスの換算質量、z は電荷数、N₀ は標準状態のガス数密度である。
名前のとおり、この式は 低電場(low-field) を前提にしている。ガイドラインはその中身を具体的に述べる ―― 前提のひとつは 電場がゼロであること(電場から得る運動エネルギーが熱運動エネルギーに対して無視できること)であり、原文はこれを「実際の IM 実験では根本的にそうではない」(fundamentally not the case in a real IM experiment)と書いている。
つまり CCS には、測定誤差とは別に、モデルに由来する偏りが乗っている。しかもガイドラインは「現時点では、その補正係数の符号も大きさも分かっていない」と率直に述べる。
ここから二つの勧告が出る。
- データベースには CCS だけでなく K(または K₀)も載せるべき。将来モデルが更新されたときに、移動度から CCS を再計算できるようにしておくため。
- 装置の較正は、CCS 値ではなく移動度の値にもとづいて行うべき。CCS しか手元にない場合は、まず適切なモデルで移動度に変換してから使う。
「CCS を CCS で較正する」ことが常態化している現場は少なくないだろう。ガイドラインはそれを明確に勧めていない。
2. 6段階のうち、CCS は最後の2段階にある

ガイドラインは IM-MS 実験を 6段階に分解している。
- 試料調製
- イオン調製(イオン化・輸送・蓄積)
- IM-MS 測定
- ピーク帰属
- 移動度(K または K₀)の決定
- CCS の決定
そのうえで、報告のレベルを段階に対応づける。
| 何を報告するか | 必要な段階 |
|---|---|
| IM-MS データ(到達時間分布など) | 1〜4 |
| K₀ 値 | 1〜5 |
| CCS 値 | 1〜6 |
この整理は実務的に効く。分離の道具として IM を使うだけなら、5・6 段階は要らない。ガイドライン自身が「移動度や CCS の値を必要としない応用 ―― たとえば分離科学や、絶対値ではなくイオン構造の変化を議論する場合 ―― では、IM データの報告は 1〜4 段階で足りる」と書いている。
CCS を出した瞬間に、較正とモデルという二つの不確かさが乗る。必要がないなら出さないという選択肢があることは、意外に意識されていない。
報告上の細かいが有用な指摘もある。
Don't label the axis "drift time" if what is measured is an "arrival time". (測っているのが「到達時間」なら、軸に「ドリフト時間」とラベルしないこと)
到達時間には、分離領域の外(イオン輸送部など)で費やした時間も含まれる。ドリフト時間はそのうち分離領域で費やした分だけである。TIMS では溶出電圧(V_e)、FAIMS では補償電圧(CV)が対応する軸になる。
3. 5つの方式 ― DTIMS / TWIMS / TIMS / DMA / FAIMS

ガイドラインは測定原理を 線形法と非線形法に大別する。
線形法(K₀ が電場に依存しないと仮定する)
- DTIMS(ドリフトチューブ型):一定かつ一様な電場でイオンを静止ガス中に通す。最も素直な構成で、CCS を較正なしに求められる一次法になりうる。
- TWIMS(進行波型):分離領域を伝播していく対称な電位の波でイオンを送る。SLIM もサイクリック IMS も、原理としては TWIMS である。
- TIMS(トラップ型):流れるガスに対して電場でイオンをその場に止める。電圧勾配により、異性体・配座異性体が異なる電場位置に同時にトラップされる。電場を段階的に下げて順に放出し、各成分は特徴的な溶出電圧 V_e で記述される(V_e は 1/K₀ と結びつく)。
- DMA(differential mobility analyzer):電場による移動と直交方向の流体流による移動を組み合わせ、空間的に分離する。指定した移動度のイオンだけが出口に到達する。
非線形法
- FAIMS / DIMS / DMS / IMIS:K が電場強度に依存すること自体を利用する。高い電場と低い電場での K の差で分離するので、原理的に線形法とは別物である。
ここで用語を整理しておくと混乱が減る。ガイドラインは DIMS・DMS・FAIMS・IMIS の4つの略語は同じ測定原理を指すと明言している。歴史的に平面ギャップを DIMS、湾曲ギャップを FAIMS と呼び分けてきたが、その区別は「古い歴史的経緯以外に根拠がなく、推奨されない」とまで書かれている。SCIEX の SelexION 利用者は DMS と呼ぶことが多い、という注記もある。
4. 「線形法」の低電場近似は、実は成り立っていない

線形法の定義は「K₀ が電場に依存しないと仮定する」ことだった。では実際の電場はどうか。ガイドラインが挙げる E/N(換算電場) の典型値を並べると、様子が変わって見える。
| 方式 | 典型的な E/N |
|---|---|
| DTIMS | 1〜15 Td |
| DMA | 20 Td 未満(低電場極限で運転可能) |
| TIMS | 45〜85 Td |
| TWIMS | ピーク値で 50〜160 Td |
(1 Td = 10⁻²¹ V m²)
TWIMS と TIMS は、DTIMS の数倍から10倍以上の電場を使っている。「線形法」と分類されてはいるが、K₀ が電場に依存しないという前提から大きく外れた領域で動いていることになる。
ガイドラインはこの帰結も述べている ―― いわゆる線形法で使われる電場の範囲は互いに十分違うため、TWIMS・TIMS、あるいは高電場の DTIMS では、実効温度がガス温度より高くなりうる。イオンは「熱い」状態で測られ、より広がった構造に偏りうる。
これが、TWIMS や TIMS で CCS を出すには較正が要る理由であり、較正物質の選び方が結果を左右する理由でもある(10 節)。DTIMS が一次法になりうるのは、低電場近似が比較的よく成り立つからだ。
5. FAIMS は別枠 ― CCS を与えない代わりに何を得るか
FAIMS を IM-MS の一種として同列に並べると混乱する。FAIMS は CCS を与えない。
FAIMS が測っているのは、高電場での K と低電場での K の差である。この差は化合物ごとに違い、しかも符号すら一定しない ―― ガイドラインは、E/N の増加とともに K が増える組み合わせ(FAIMS でいう type A や B)と、減る組み合わせ(type C)があると述べている。分離は起こるが、そこから断面積という単一の量を導く道筋がない。
出力は 補償電圧(CV) である。CV は装置・ガス組成・温度に強く依存し、CCS のようにラボ間で共有できる「分子の識別子」にはならない。
では何のために使うのか。選択性のフィルタとしてである。目的イオンを通す CV に固定すれば、同じ m/z を持つ夾雑をゲートで落とせる。CCS 軸が欲しいのではなく S/N が欲しい場面 ―― たとえば LC-MS/MS のマトリックス効果 に苦しむ定量分析 ―― では、CCS を出せないことは欠点にならない。
「形の情報が欲しいのか、夾雑を落としたいのか」で、選ぶ方式が変わる。ここを取り違えると、FAIMS を買って CCS が出ないと悩むことになる。
6. 分解能の数字を読む ― Rp_t と Rp_Ω は別物
分離能の指標は分解能 Rp である。ドリフトチューブでは素直に書ける。
Rp = t_D / t_FWHM ∼ (L·E / T)^(1/2)
(t_D はドリフト時間、t_FWHM は半値全幅、L は経路長、E は電場、T は温度)
経路長と電場を上げれば分解能は上がるが、平方根でしか効かない。4倍にしたければ経路長を16倍にする必要がある。7 節で「長さで稼ぐ」装置が巨大化する理由がここにある。
問題はここからだ。Annu. Rev. Anal. Chem. のレビューは、電気力学的な分離が普及したことでこの指標の評価が複雑になったと指摘する。
- 静電的な分離(DTIMS) では、t_D と K⁻¹ が線形の関係にある。
- 電気力学的な分離(TWIMS・TIMS) では、この関係が非線形になる。
多くの研究者は CCS(Ω)空間での分解能 Rp_Ω を報告するが、それには較正関数で到達時間を Ω に変換する必要がある。そして t_D と Ω の関係が非線形であるため、Rp_t と Rp_Ω は異なる値になる。
つまり「分解能 400」という数字は、時間軸で測ったのか CCS 軸で測ったのかを確かめないと比較できない。しかも Rp_t は、電場を利用する一部の IM 分離の記述には適さない。
参考までに、レビューが挙げる実測値を整理する。
| 方式 | 報告された Rp_Ω | 対象 |
|---|---|---|
| サイクリック IM(多重通過) | > 400 | ラセミ体サリドマイド二量体をジアステレオマー組成で識別 |
| TIMS | 〜400 | 一価のポリ臭素化ジフェニルエーテル代謝物 |
| TIMS | 295 | ユビキチン 7+ の伸長した配座異性体 |
| 進行波(SLIM 系) | > 200 | ガングリオシド |
TIMS の Rp_Ω には注意点がある。同レビューは「与えられた条件下では、K が小さいイオンほど一般に Rp_Ω が大きくなる」と述べている。分解能は化合物によって変わるので、単一の数字で装置を代表させにくい。
基準点としての DTIMS
比較の基準として、市販ドリフトチューブ機の公称仕様を見ておくと感覚がつかめる。Agilent 6560 のスペックシートには次のようにある。
| 項目 | 仕様 |
|---|---|
| ドリフト分解能(native) | 一価化合物で 50 超 |
| ドリフト分解能(HRdm 2.0) | 一価化合物で 200 超 |
| CCS 確度(MS モード) | 外部標準なしで測定して 2% 未満 |
二つ読み取れる。
ひとつは、素の DTIMS の分解能は 50 程度だということ。7 節で見る SLIM やサイクリックの 200〜400 という数字が、なぜ経路長を数十メートルまで伸ばして得られているのかが分かる。
もうひとつは、分解能はハードウェアだけで決まらないこと。HRdm 2.0 は多重化を解くデータ処理であり、これだけで 50 が 200 超になる。「分解能」を比較するときは、生の分離性能なのか処理後の値なのかも見る必要がある。
そして「外部標準なしで CCS 確度 2% 未満」という項目は、3 節で述べた「DTIMS は較正なしに CCS を求めうる一次法」という性格を、メーカー仕様の側から裏づけている。TWIMS や TIMS のスペックシートに、この形の項目は書けない。
7. 長さで稼ぐ ― 1 m から 13.5 m、そして 100 m 超へ

Rp が経路長の平方根でしか上がらない以上、高分解能を得るには経路を長くするしかない。ここに二つの解が生まれた。どちらも原理は TWIMS である。
- サイクリック IMS(Waters):環状の分離領域をイオンに何周もさせる。
- SLIM(structures for lossless ion manipulations、PNNL 発、MOBILion が商用化):プリント基板上の電極パターンで蛇行経路を作る。
Mass Spectrom. Rev. のレビューによれば、両者の経路長は 数十メートルから 1 km 超の水準に達する。SLIM の展開は速かった。2017 年に 13.5 m の単一パスの系が登場し、イオンを循環させて経路を数百メートル規模に延ばす SUPER(serpentine ultralong path with extended routing)が加わった。13.5 m の SLIM は、1 m の DTIMS を異性体分離で大きく上回ったと記録されている。
同レビューが引く比較図は、この効き方を端的に示している ―― 90 cm の DTIMS、44 cm の SLIM、13 m の SLIM で、逆配列ペプチド、ロイシン/イソロイシンの違い、シス/トランス二重結合、五糖を並べて比較したものだ。
ただし長くすればよいだけではない。Annu. Rev. のレビューは重要な副作用を指摘する ―― 分離経路が長いほど分解能は上がるが、同時に構造が異性化する時間も長くなる。気相中で配座が変わってしまえば、測っているものが変わる。実際、低質量のタンパク質イオンでは分離中の構造変化が問題になりうると述べられている。
分解能と、測っている構造の同一性は、トレードオフの関係にある。
8. 2026年の直接対決 ― 分解能で勝っても実務で負けることがある
では SLIM とサイクリック、どちらを選ぶべきか。2026 年 4 月、両者を同一試料で直接比較した研究が出た(Rapid Commun. Mass Spectrom. 2026;40:e70073、オープンアクセス)。
対象は植物細胞壁ペクチン由来の ホモガラクツロナンオリゴ糖(HGOS)。酵素分解で重合度(DP)とメチル化度(DM)の異なる種を作り、両プラットフォームで同一化学種のマススペクトルとイオンモビリティマップを比較した。結果はこうである。
- 単一パスでは、10 m の SLIM のほうが分解能が高く、たとえば DP5DM4 について、より多くの IMS ピークを分離できた。
- ただし、サイクリック IMS で単一パスでは分離できなかったピークも、多重通過にすれば到達できた。
- 両者の本質的な違いは、分解能ではなくイオン化と電荷状態分布にあった。Agilent 6560 に後付けした SLIM は市販のイオン源とイオン光学系を使うため、より大きく、より高電荷の種が形成され、カチオン付加体も多かった。これは分解能には有利だが、信号が複数の電荷状態に分散して感度を損なう。
- 対してサイクリック IMS の Z-spray 源は低電荷を好み、診断的な解釈が単純になる。
著者らの結論は率直だ。
Despite the superior intrinsic IMS resolution of the 10-m SLIM, the combination of ionization behavior, instrument tuning requirements, and data processing complexity makes the cyclic IMS more practical for routine analysis. (10 m SLIM の本質的な IMS 分解能は優れているにもかかわらず、イオン化挙動・装置チューニングの要求・データ処理の複雑さを合わせて考えると、ルーチン分析にはサイクリック IMS のほうが実用的である)
分解能のカタログ値で勝っている装置が、実務で勝つとは限らない。イオン化の段階で信号が分散してしまえば、分離できても検出できない。両者は競合というより相補的だ、というのが論文の総括である。
9. CCS はどれだけ再現するのか

CCS が「分子の識別子」として使えるかどうかは、ラボをまたいで再現するかにかかっている。この問いに答えたのが Stow らの相互ラボ検証(Anal. Chem. 2017;89(17):9048-9055)である。
基準となる DTIM-MS を構築し、分離に影響する実験パラメータの測定精度を高めることで、120 種を超えるイオン種について標準化された窒素中 CCS 値(DTCCS_N2)を、当時最小の測定不確かさで与えた。そのうえで、市販 DTIM-MS を持つ3つの追加ラボで再現性を評価している。
- 従来のステップフィールド法:全イオン種・3ラボで RSD 0.29%
- 較正した単一フィールド法:基準系の標準ステップフィールド値に対する平均絶対バイアス 0.54%
単一フィールド法は、クロマトグラフィーと組み合わせる実運用で使える方式である。それが 0.54% のバイアスに収まるという事実が、LC-IM-MS における CCS の実用性を支えている。
タンパク質側の再現性も検証されている。3ラボ(ミシガン大・テキサス A&M・ヴァンダービルト大)による衝突誘起アンフォールディング(CIU)の相互比較(Analyst 2023;148(2):391-401)では、8.6〜66 kDa のタンパク質イオンについて、
- 同一ラボ内では CIU フィンガープリントが再現し、RMSD は 5% 未満
- CIU 中間体の CCS 値はラボ間で一致し、多くの特徴で 1% より良い再現性
- しかし、CIU 転移を起こすのに必要な活性化電位はラボ間で異なった
という結果になった。「CCS は揃うが、そこへ至らせる条件は揃わない」という切り分けは示唆的である。著者らは機械的公差を高めたイオン活性化ハードウェアを製作してこの差に対処している。
10. 較正が結果を決める ― TWIMS / TIMS の宿命
4 節で見たとおり、TWIMS と TIMS は低電場近似から外れた領域で動く。したがって CCS を得るには較正が要る。そして較正物質の選択が、そのまま結果の質になる。
高分解能 TWIMS のレビューは、この分野で分かってきたことを整理している。
- CCS 測定には分子クラスによる偏りが生じうる。較正物質と未知試料の分子クラスが近いほど精度が上がる。
- 剛直なホスファゼン系の較正物質とスケーリング係数を組み合わせると、分子クラスをまたいでも TWIMS の CCS 精度・確度がともに改善する、と結論されている。
- 較正物質の選定では、意図しないイオン加熱にも注意が要る。加熱されると CCS はより「ほどけた」構造の側に偏る。とくにペプチドやタンパク質で問題になる。
ガイドラインの表記法もここに絡む。同分野では、方式を上付き・ガスを下付きにした表記 ―― たとえば ^DT CCS_N2(窒素中、ドリフトチューブで得た値)、^TW CCS_N2(窒素中、進行波型で得た値)―― が推奨されている。さらに、較正なしで得た一次値と、較正を経た二次値を明示的に区別する表記も勧告されている。
論文やデータベースで CCS を見たとき、どの方式で、どのガスで、一次値か二次値かを確認する。同じ「CCS」という名前でも、比較可能性が違う。
11. CCS 予測は、実測の再現性と桁が違う
CCS を同定に使うなら、標準品がない化合物の CCS をどうするかという問題が残る。ここで機械学習による予測が登場する。
代表例が AllCCS2(Anal. Chem. 2023;95(37):13913-13921)である。10,384 件の実験 CCS レコードと 7,713 の統合値を学習データとし、質量分析的特徴・分子記述子・グラフ畳み込みネットワークで抽出したグラフ特徴を組み合わせたニューラルネットワークで予測する。報告された精度は次のとおり。
| データセット | 中央相対誤差(MedRE) |
|---|---|
| 学習 | 0.31% |
| 検証 | 0.72% |
| テスト | 1.64% |
DTIMS・TWIMS・TIMS のいずれのプラットフォームとも良好な互換性を示したとされる。
ここで 9 節の数字と並べてみる価値がある。
- 実測(ステップフィールド DTIMS、3ラボ):RSD 0.29%
- 実測(較正単一フィールド):バイアス 0.54%
- 予測(AllCCS2、テストセット):MedRE 1.64%
予測の誤差は、実測の再現性のおよそ 5〜6 倍ある。これは予測が使えないという意味ではなく、使いどころが違うという意味である。CCS 予測は候補を絞り込むフィルタとしては有効だが、実測 CCS 同士の一致で同定を主張するのと同じ強度では使えない。許容幅を「実測の再現性」で切ると偽陰性が増える。
なお AllCCS2 の論文は、構造類似性の低い化合物ほど予測の不確かさが大きくなることも調べている。未知化合物 ―― つまり最も予測が欲しい相手 ―― ほど、予測が当たりにくいという構造は意識しておきたい。機械学習の一般論としては 分析化学における AI/機械学習 も参照されたい。
12. 何が実際に分かれたのか ― 応用の実例

原理の話が続いたので、実際に何が分離できたのかを挙げる。いずれも前掲のレビューが引く実例である。
- 脂質の二重結合位置:SLIM IM-MS を LC と組み合わせ、脳および肝臓の総抽出物中で、二重結合の位置だけが違うホスファチジルコリン異性体を分離・同定した。
- ペプチドの異性化:LC-サイクリック IM-MS で Asp と iso-Asp を含むペプチドを分離し、その位置まで特定した。バイオ医薬品の品質管理で問題になる修飾である。
- 糖鎖:ヘパラン硫酸オリゴ糖で、LC 領域とイオンモビリティ領域にそれぞれ2本ずつのピークが現れ、組み合わせると4つの異性体が存在することが示された。ピークキャパシティが掛け算で効く例である。
- 単糖のアノマー:サイクリック IM の 5回通過で α/β アノマーを分離した。
- ガングリオシド:進行波系で、シアル酸の結合位置だけが違う2つの異性体をベースライン分離し、しかも LC なしで達成した。従来の LC 分離に対してスループットが15倍に改善したと報告されている。
- 未知 PFAS:GC-サイクリック IM-MS で室内塵中の未知 PFAS を保持時間と CCS から特徴づけ、SMILES からの CCS 予測と組み合わせて同定した。PFAS 分析 の文脈では、標準品のない異性体・分岐体をどう扱うかが常に課題になる。
「ガングリオシドを LC なしで分ける」という例は、IM-MS の使い方として象徴的だ。分離の一部を時間軸(LC)からミリ秒の気相分離に移すことで、装置あたりの処理量が変わる。
13. 2026年の機器 ― 同じ日に、二社が別々の方向へ

2026 年 6 月 1 日、第74回 ASMS の初日に、Bruker と Waters が揃って新型機を発表した。方向は対照的で、この分野の二つの潮流をそのまま映している。
Bruker ― TIMS を「より高い質量分解能」と「より深い構造」へ
timsMRMS ―― TIMS を磁気共鳴質量分析(MRMS、いわゆる FT-ICR)と組み合わせた新型機。公式リリースの記載はこうである。
delivering mass resolving power of 1M to 10M, down to ppb mass accuracy, and a four orders of magnitude single-acquisition dynamic range (質量分解能 100万〜1000万、ppb レベルの質量精度、単一取得で4桁のダイナミックレンジ)
用途として挙がっているのは、ペトロレオミクス、溶存有機物、バイオ燃料のフィンガープリンティング、電池研究 ―― いずれも超複雑混合物である。数万成分が同一公称質量に重なる世界で、質量分解能だけでは足りず、気相分離をもう一軸足すという発想だ。
timsUltra AIP ―― ボトムアッププロテオミクス側。razor-PASEF 法と Spectronaut 21 の組み合わせで、細胞株・組織で 10,000 タンパク質を超える同定と定量、1日500検体(500 SPD)の条件で 6,500 タンパク質超と報告されている。
timsOmni ―― トップダウン側。トラップ型電子系解離(tExD)を組み合わせ、プロテオフォーム・抗体・糖タンパク質・オリゴ核酸のトップダウン解析で感度4倍とされる。
同社 CEO の言葉として、20,000 のヒト遺伝子から 100 万を超えるプロテオフォームが生じるという文脈が示されている。プロテオフォームを識別するには質量だけでは足りず、構造の軸が要る ―― TIMS の位置づけはそこにある。
Waters ― サイクリック IMS を「感度」と「空間」へ
同じ 6 月 1 日、Waters は Cyclic IMS P20 質量分析計を発表した。公式リリースが挙げる要点は以下のとおりである。
- MS/MS 感度が従来機比で 10 倍超
- 上限質量範囲を 50% 以上拡張し、100 kDa 超へ
- 構造解析手法として タンデムイオンモビリティ(IMSⁿ)、電子捕獲解離(ECD)、表面誘起解離(SID)、衝突誘起アンフォールディング(CIU) を搭載
- MALDI XS および DESI XS イメージングを高分解能イオンモビリティと統合
注意点として、「10 倍超」「50% 以上」はいずれも従来機との比較として示された値であり、他社機との比較ではない。
技術的に目を引くのは IMSⁿ(タンデムイオンモビリティ) である。移動度で選んだイオンを活性化し、再び移動度で分離する ―― MS/MS の移動度版にあたる。9 節で見た CIU が「ほどける過程を指紋にする」手法だったが、それを分離軸の中に組み込む方向といえる。
二社の方向の違い
| Bruker | Waters | |
|---|---|---|
| IM 方式 | TIMS | サイクリック(TWIMS) |
| 質量側 | MRMS で 1M〜10M 分解能(timsMRMS) | 上限質量を 100 kDa 超へ拡張 |
| 構造側 | トラップ型電子系解離(tExD)でトップダウン感度4倍 | IMSⁿ・ECD・SID・CIU を1台に |
| 空間側 | timsTOF fleX 系の MALDI イメージング | MALDI XS / DESI XS を統合 |
| 想定用途 | プロテオミクス、プロテオフォーム、超複雑混合物(石油・溶存有機物・電池) | 構造・空間オミクス、次世代バイオ医薬 |
Bruker は「質量分解能をさらに上げる」方向、Waters は「感度と空間情報を足す」方向に進んだ、と読める。どちらを選ぶかは、6 節で述べたとおり分解能のカタログ値ではなく、自分の試料でイオン化と感度がどうなるかで決まる。
装置全体の選び方は 質量分析計の選び方、周辺動向は 質量分析の最新動向 も参照されたい。
14. 導入判断のチェックリスト

目的を先に決める
- 形の情報(CCS)が欲しいのか、夾雑を落としたいのか。後者なら FAIMS/DMS で足りるし、CCS が出ないことは欠点にならない。
- CCS 値を報告する必要が本当にあるか。分離の道具として使うだけなら、ガイドラインのいう 1〜4 段階の報告で足りる。CCS を出せば較正とモデルの不確かさが乗る。
- ラボをまたいで CCS を共有するのか。するなら DTIMS(一次法)を基準に置くか、較正戦略を明文化する。
数字を読む
- 分解能は Rp_t か Rp_Ω かを確認する。電気力学的分離では両者は一致しない。
- その分解能はどの化合物で出た値か。TIMS では K が小さいイオンほど Rp_Ω が大きく出る。
- 経路長を伸ばすと、分離中の構造異性化の時間も伸びる。タンパク質・配座を見るなら副作用を評価する。
較正と運用
- 較正は移動度ベースで組む。CCS 値で CCS を較正しない。
- 較正物質は分子クラスを合わせる。ホスファゼン系+スケーリング係数という選択肢がある。イオン加熱による「ほどけ」側への偏りに注意。
- 表記は ^DT CCS_N2 / ^TW CCS_N2 の形で、一次値か二次値かも明示する。
- 軸のラベルを正しく。測っているのが到達時間なら「ドリフト時間」と書かない。
同定に使う
- 予測 CCS は実測 CCS と同じ強度の証拠ではない。実測の再現性は 0.3〜0.5% 水準、予測の中央相対誤差はテストセットで 1.64%。許容幅を実測基準で切ると偽陰性が出る。
- カタログの分解能で装置を決めない。2026 年の直接比較では、分解能で勝る 10 m SLIM より、イオン化と運用の素直さでサイクリック IM のほうがルーチン向きと結論された。
まとめ
- イオンモビリティが測っているのは移動度であって、面積ではない。移動度 K は SI にトレーサブルだが、CCS は数学モデルを通した導出量で、SI にトレーサブルではない。だからガイドラインは「較正は移動度で行え」「データベースには K₀ も載せろ」と勧告する。
- IM-MS 実験は6段階からなり、CCS は最後の2段階にある。分離の道具として使うだけなら、そこまで進む必要はない。
- 「線形法」と呼ばれる TWIMS(50〜160 Td)と TIMS(45〜85 Td)は、DTIMS(1〜15 Td)よりはるかに高い電場で動いており、低電場近似から外れている。較正が必要になるのはそのためで、実効温度がガス温度を超えうる。
- FAIMS/DMS は別の原理で、CCS を与えない。代わりに補償電圧による選択性フィルタとして働く。
- 分解能の数字は Rp_t と Rp_Ω で別物になる。経路長を伸ばせば分解能は上がるが、平方根でしか効かず、分離中の構造異性化という副作用が付く。
- CCS の実測再現性は高い(3ラボのステップフィールドで RSD 0.29%、較正単一フィールドでバイアス 0.54%)。一方で予測 CCS の誤差はその 5〜6 倍ある(テストセットで MedRE 1.64%)。両者を同じ強度の証拠として扱わない。
- カタログの分解能が実務の勝者を決めない。2026 年の直接比較は、分解能で勝る SLIM より、イオン化挙動と運用のしやすさでサイクリック IM がルーチン向きだと結論した。
用語集
- イオンモビリティ(IM):緩衝ガス中でイオンが電場に駆動されて動く速さの違いで分離する手法。
- 移動度 K:ドリフト速度を電場で割った量。K₀ は標準状態に換算した換算移動度。
- CCS(衝突断面積):移動度から数学モデルを通して導かれる、イオンとガス分子の衝突しやすさを面積の次元で表した量。直接測定量ではない。
- E/N(換算電場):電場を中性ガス数密度で割った量。単位はタウンゼント(Td、1 Td = 10⁻²¹ V m²)。
- DTIMS:一定・一様な電場を用いるドリフトチューブ型。較正なしに CCS を求めうる一次法。
- TWIMS:進行波でイオンを送る方式。サイクリック IMS と SLIM はいずれもこの原理。
- TIMS:流れるガスに対して電場でイオンを止め、電場を段階的に下げて順に放出する方式。溶出電圧 V_e が 1/K₀ と結びつく。
- DMA:電場による移動と直交流による移動を組み合わせ、空間的に分離する方式。
- FAIMS / DIMS / DMS / IMIS:高電場と低電場での移動度の差で分離する非線形法。4つの略語は同じ原理を指す。出力は補償電圧(CV)。
- SLIM:structures for lossless ion manipulations。基板上の電極パターンで長い蛇行経路を作る TWIMS 実装。
- SUPER:serpentine ultralong path with extended routing。SLIM でイオンを循環させ経路を数百メートル規模に延ばす方式。
- Rp_t / Rp_Ω:時間軸で定義した分解能と、CCS 軸で定義した分解能。電気力学的分離では一致しない。
- PASEF:parallel accumulation-serial fragmentation。TIMS でイオンを蓄積しつつ順に断片化する取得法。
- CIU(衝突誘起アンフォールディング):段階的に気相で活性化してタンパク質をほどき、その過程を指紋として使う手法。
- 一次値/二次値:較正なしに得た CCS 値と、較正を経て得た CCS 値。
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出典
- V. Gabelica, A.A. Shvartsburg, C. Afonso, P. Barran, J.L.P. Benesch, C. Bleiholder, M.T. Bowers ほか, "Recommendations for reporting ion mobility Mass Spectrometry measurements", Mass Spectrom. Rev. 2019;38(3):291-320. doi:10.1002/mas.21585(オープンアクセス) https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC6618043/
- S.M. Stow, T.J. Causon, X. Zheng, R.T. Kurulugama, T. Mairinger, J.C. May, E.E. Rennie, E.S. Baker, R.D. Smith, J.A. McLean, S. Hann, J.C. Fjeldsted, "An Interlaboratory Evaluation of Drift Tube Ion Mobility-Mass Spectrometry Collision Cross Section Measurements", Anal. Chem. 2017;89(17):9048-9055. doi:10.1021/acs.analchem.7b01729(PMC5744684)
- "Enhancing the Depth of Analyses with Next-Generation Ion Mobility Experiments", Annu. Rev. Anal. Chem. 2023. doi:10.1146/annurev-anchem-091522-031329(オープンアクセス) https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC10545071/
- "Recent advances in high-resolution traveling wave-based ion mobility separations coupled to mass spectrometry", Mass Spectrom. Rev. 2025. doi:10.1002/mas.21902(オープンアクセス) https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC11785821/
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- H. Zhang, M. Luo, H. Wang, F. Ren, Y. Yin, Z.-J. Zhu, "AllCCS2: Curation of Ion Mobility Collision Cross-Section Atlas for Small Molecules Using Comprehensive Molecular Representations", Anal. Chem. 2023;95(37):13913-13921. doi:10.1021/acs.analchem.3c02267
- V.V. Gadkari, B.R. Juliano, C.S. Mallis, J.C. May, R.T. Kurulugama, J.C. Fjeldsted, J.A. McLean, D.H. Russell, B.T. Ruotolo, "Performance evaluation of in-source ion activation hardware for collision-induced unfolding of proteins and protein complexes on a drift tube ion mobility-mass spectrometer", Analyst 2023;148(2):391-401. doi:10.1039/d2an01452a
- Bruker ニュースリリース "Bruker Announces Major Strides in 4D Proteomics Performance..."(2026年6月1日、ASMS) https://www.bruker.com/en/news-and-events/news/2026/bruker-announces-major-strides-in-4d-proteomics-performance.html
- Waters Corporation ニュースリリース "Waters Unveils Cyclic IMS P20 MS: The New Benchmark in Structural and Spatial Omics"(2026年6月1日、第74回 ASMS、PR Newswire 配信) https://www.prnewswire.com/news-releases/waters-unveils-cyclic-ims-p20-ms-the-new-benchmark-in-structural-and-spatial-omics-302786911.html
- Agilent Technologies, Agilent 6560 Ion Mobility Q-TOF Specifications Data Sheet, 5991-4612EN
制作メモ:ディープリサーチで文献を収集しつつ、編集側で原著・原典を開いて検証のうえ執筆した。本記事の中核である「CCS は導出量である」「較正は移動度で行うべき」「Rp_t と Rp_Ω は別物」という論点は、いずれも分野の報告ガイドライン(出典1、オープンアクセス)および査読済みレビュー(出典3・4)の本文を直接読んで確認している。
本稿では以下を不採用とした。
- Waters の製品ページは curl で 403 となり直接は読めなかったため、Cyclic IMS P20 に関する数値は PR Newswire 配信の公式ニュースリリース(出典9) から取っている。同リリースの「MS/MS 感度10倍超」「上限質量50%以上拡張」はいずれも従来機との比較として提示された値であり、その旨を本文に明記した。他社機との比較ではない。
- MOBILion および Bruker の製品ページは取得できたが、数値仕様を伴わないマーケティング記述が中心だったため、性能値としては使用していない。Bruker に関する数値は、日付と内容が明示された公式ニュースリリース(出典8)から取っている。
- Agilent 6560 の数値は、Agilent のスペックシート 5991-4612EN の本文を開いて確認した(agilent.com は 403 のため、同一文書のミラーを経由)。
- 分解能の比較表に挙げた Rp_Ω の値は、いずれも特定の化合物・特定の条件での報告値であり、装置の一般的な性能を代表するものではない。本文中にその旨を明記した。