イオン源の選び方 ― 専用ESIと専用APCIは「別の89%」を拾う【2026年版】
質量分析

イオン源の選び方 ― 専用ESIと専用APCIは「別の89%」を拾う【2026年版】

イオン源の選定は「極性と分子量のチャートを見て決める」と教わる。しかし Agilent が公表した実測では、 医薬品と中間体のテストセットに対し専用APCI源が 89%、専用ESI源が 89% を検出し、しかもその 89% は 「別の 89%」だった。つまり ESI か APCI かの選択は、必ず取りこぼしを生む。本記事は NIST WebBook のプロトン親和力・イオン化エネルギーを一次データとして、ESI・APCI・APPI・EI・CI・NCI が 「気相でイオンにできる条件」を数値で整理し、そのうえで流量(ESI は 10 nL/min → 1 mL/min で 消費量 10万倍・シグナル 20倍)、マトリックス効果(イオン抑制で血漿濃度が最大 5.5 倍の過小評価)、 複合イオン源の妥協点、そして GC 側の 70 eV EI が抱える「NIST ライブラリの約 30% に分子イオンが無い」 という代償までを、メーカー技術資料と査読論文の原典から確認して示す。

イオン源の選び方は、たいてい1枚のチャートで説明されます。横軸が極性、縦軸が分子量。右上が ESI、左下が EI、その間が APCI と APPI。島津製作所の技術資料にも、まさにこの図(分子量 100/1,000/10,000 を縦軸に、低極性〜高極性を横軸にとった図)が載っています。

このチャートは正しい。しかし、これだけでは選定になりません。理由は Agilent が 2005 年に公表した実測データが端的に示しています。

医薬品とその中間体からなるテストセットを、専用 APCI 源と専用 ESI 源、そして両方を同時に使える複合イオン源で測ったところ——

Of the compounds in the test set, 89% were detected using a dedicated APCI source, and a different 89% were detected using a dedicated ESI source. However, all test compounds were detected using the multimode source in positive/negative mode. (テストセットの化合物のうち、専用 APCI 源では 89% が、専用 ESI 源では「別の 89%」が検出された。しかし複合イオン源の正負切替モードでは全化合物が検出された) — Fischer & Perkins, Agilent Technical Overview 5989-2935EN

同じ 89% ではありません。別の 89% です。ESI を選べば約 1 割を取りこぼし、APCI を選んでも約 1 割を取りこぼし、しかも取りこぼす相手が違う。

だからイオン源の選定とは、「一番良いものを選ぶ」作業ではありません。取りこぼしをどこに置くかを決める作業です。そして、どこに置けるかは、極性という曖昧な言葉ではなく、プロトン親和力(PA)とイオン化エネルギー(IE)という具体的な数値で決まります。

この記事は、次の3段の順序でイオン源を選ぶ道筋を示します。

  1. 試料をどうやって気相に出すか(LC か GC か、熱で壊れるか)
  2. 気相でイオンにする経路が成立するか(PA と IE の数値で判定する)
  3. 流量とマトリックス(同じ化合物でも、条件で最適解が変わる)

数値はすべて、メーカーの技術資料 PDF・NIST Chemistry WebBook・査読論文の原典を開いて確認したものです。

この記事の読み方:1〜3節は前提の整理で、入門者向けです。4〜7節が本記事の核心(ESI・流量・APCI・APPI を数値で判定する)。8〜9節はマトリックス効果と複合イオン源、10〜11節は GC 側(EI・CI・NCI)、12節が目的別の選択です。イオン源が汚れて感度が落ちたときの切り分けはLC-MSトラブルシューティング、質量分析計そのものの選定は質量分析計の選び方、前処理を挟まないイオン化はアンビエントイオン化MSをあわせてご覧ください。

1. 前提:イオン源は「中性分子をイオンに変える」ただ1か所

イオン源が中性分子をイオンに変える唯一の場所であることを示した図解
図解:イオン源は中性分子をイオンに変える唯一の場所。イオンにならない分子は測れない。イオン化の舞台は真空中(EI・CI)と大気圧下(ESI・APCI・APPI)の2系統に分かれる。

質量分析計は、質量電荷比(m/z)でイオンを分ける装置です。裏を返せば、イオンになっていないものは一切測れません。試料の分子は最初は中性ですから、どこかでイオンにしなければならない。それをやるのがイオン源です。

つまりイオン源は、分析法全体で唯一「測れる/測れない」を二値で決めている場所です。四重極を Orbitrap に替えれば分解能は上がりますが、イオンにならない化合物は分解能をいくら上げても出てきません。質量分析計本体の選定(質量分析計の選び方)よりも、イオン源の選定が先に効くのはこのためです。

イオン化には、大きく2つの舞台があります。

  • 真空中でイオン化する(EI・CI)。GC の溶出物は既に気体なので、そのまま真空系に入れられます。
  • 大気圧下でイオン化する(ESI・APCI・APPI。まとめて API=大気圧イオン化)。LC の溶出液は液体なので、溶媒を飛ばしながらイオンにする必要があります。

なぜ LC に EI が使えないのか。島津製作所の解説が理由を明快に書いています。EI は高真空中で金属フィラメントに電流を流して高エネルギー電子を作りますが、LC の流量は高真空系と両立せず、また大気圧下でフィラメントを加熱すると酸化して焼き切れてしまう。だから LC と MS の間には、溶出液を気体に変えつつイオン化する「インターフェース」が必要になり、それが API です。

用語補足:API(Atmospheric Pressure Ionization、大気圧イオン化)は、イオン源であると同時に LC と MS をつなぐインターフェースでもあります。生成したイオンは脱溶媒され、イオンガイドでビーム状に絞られて質量分析部へ送られます。

2. 選定の順序 ― ①相 → ②気相イオン化の経路 → ③流量とマトリックス

イオン源選定の3段階を示した図解
図解:選定は3段。①試料を気相に出せるか(LC か GC か)→ ②気相でイオンにする経路(プロトン親和力・イオン化エネルギー)→ ③流量とマトリックス。

選定を3段に分けます。上から順に効き、上の段が決まらないと下の段は意味を持ちません。

第1段:試料を気相に出せるか。 沸点が十分低く熱にも耐えるなら GC 側(EI・CI)が使えます。加熱で壊れる、あるいは不揮発性なら LC 側(ESI・APCI・APPI)です。ここは可否の問題で、好みの問題ではありません。タンパク質を GC には入れられません。

第2段:気相でイオンにする経路があるか。 これが本記事の中心です。3つの経路しかありません。

経路 何が起きるか 主な手法 判定に使う数値
溶液中で既にイオン 帯電液滴から気相へ放出 ESI pKa(移動相 pH との関係)
気相でプロトンを受け取る 試薬イオンからのプロトン移動 APCI・CI プロトン親和力(PA)
気相で電子を1個失う/得る 光イオン化・電子イオン化・電子捕獲 APPI・EI・NCI イオン化エネルギー(IE)・電子親和力

第3段:流量とマトリックス。 同じ化合物でも、流量が 50 µL/min か 1 mL/min かでイオン源の得手不得手は逆転します。共存成分の量によっても最適解は変わります(8節)。

この順序で見ると、「極性 vs 分子量」チャートが何を要約していたのかが分かります。極性が高い=溶液中でイオンになりやすい=ESI極性が低い=気相に出やすくプロトンや電子をやり取りしやすい=APCI/APPI/EI。チャートは第2段の経路を、極性という一語に圧縮した近似図なのです。近似なので、外れます。

3. 「ESI で約80%」という出発点

専用ESIと専用APCIがそれぞれ別の89%を検出することを示したベン図
図解:ESI で応答するのは全分析種の約 80% という見積もり。専用 ESI で 89%、専用 APCI で 89%、しかも「別の 89%」。複合イオン源では全化合物が検出された。

Agilent の技術資料は、ESI の適用範囲をこう書いています。

As remarkable as the technique of ESI is, it does not ionize all organic compounds of interest that may be eluted from an HPLC. It has been estimated that about 80% of all analytes respond by ESI, leaving a significant fraction as undetectable.

これは実測ではなく「見積もり(estimated)」であることに注意してください。それでも、実務上の出発点としては有用です。LC から出てくる有機化合物のうち、およそ 5 分の 1 は ESI では見えない。

そして冒頭の 89% の話に戻ります。専用 ESI が 89%、専用 APCI が 89%、ただし別の 89%。ここから読み取るべき実務的な結論は3つです。

  1. 単独のイオン源で全部は測れない。 これは装置の性能ではなく原理の問題です。
  2. 「ESI で出なかった」は「その化合物が測れない」ではない。 APCI や APPI に替える価値がある。
  3. 未知試料のスクリーニングでは、複数のイオン源を通すか、複合イオン源を使う設計が正しい。

裏を返せば、測る対象が確定している定量分析では、その1化合物に最適な1つのイオン源を選び切ればよいということでもあります。網羅と定量では、正解が違います。

4. ESI ― 溶液の中で既にイオンになっているものを気相へ

ESIのイオン化過程と移動相pHの指針を示した図解
図解:ESI は ±3〜5 kV で噴霧し、溶液中で既にイオンになっているものを気相へ出す。多価イオンでミオグロビンの分子量 16951.3 が算出できる。移動相 pH は試料の pKa より 1〜2 低くする。

ESI(エレクトロスプレーイオン化)は、キャピラリー先端に ±3〜5 kV 程度の高電圧をかけて試料溶液を噴霧し、印加電圧と同じ極性に帯電した微小液滴の霧を作ります。液滴は溶媒が蒸発するにつれて表面電荷密度が上がり、電荷同士の反発が表面張力を超えたところで分裂(クーロン爆発)します。この蒸発と分裂を繰り返して液滴が十分小さくなると、イオンが気相へ放出される——これがイオン蒸発モデルの描像です。

ESI の性格は3つに要約できます。

  • 最も穏やか(ソフト)なイオン化のひとつ。 フラグメンテーションがほとんど起きないので、高極性・不揮発性・熱に弱い化合物を測れます。生じるのはほぼプロトン付加(脱離)分子とアダクトイオンだけで、分子量の決定が容易です。
  • 多価イオンを作る。 プロトンを受け取れる部位が複数あると [M + nH]^n+ が生じます。ミオグロビンでは n = 10〜20 のイオンが観測され、デコンボリューションで分子量 16951.3 が算出できます。装置の m/z 測定範囲を超える巨大分子でも分子量が求まるのは、この性質のおかげです。
  • 溶液の化学に強く依存する。 多価イオンの出やすさは、化合物の pKa と溶液 pH の関係で決まります。

実務で効くのが最後の点です。島津の解説は経験則を明示しています。

一般に、望ましい移動相の pH は、試料の pKa より 1〜2 低い値である。

塩基性化合物(R-NH₂)を正イオンで測るなら酸を加えて平衡を [R-NH₃]⁺ 側に寄せる。酸性化合物なら逆に塩基を加えるか pH を pKa より高くする。イオン性の官能基を持たない中性化合物では、酢酸アンモニウムのような揮発性の塩を加えてアダクトイオンとして拾うと効率が上がることがあります。LC 分離に影響が出るなら、カラムの後(MS の直前)でポストカラム添加する手もあります。

用語補足:pKa は酸解離定数の負の対数で、その化合物が溶液中でイオンになる pH の目安です。ESI では「溶液中で既にイオンになっているか」がそのまま感度に効くので、pKa は ESI 適性の第一の指標になります。

5. 流量 ― ESI は上げるほど損をする

流量を上げたときの試料消費量とシグナルの不釣り合いを示した図解
図解:10 nL/min から 1 mL/min へ上げると、試料消費量は 10 万倍になるのにシグナルは 20 倍にしかならない。20 nL/min 未満では分析種の抑制が実質的に消える。APCI は逆に高流量で有利。

イオン源の選定で最も見落とされやすいのが流量です。Waters の UniSpray 白書(Bajic, 2017)にある一文が、この問題を最も鮮明に数値化しています。

…when conducting infusion experiments with a fixed analyte concentration from flow rates of 10 nL/min to 1 mL/min, it is common to observe only a 20 times increase in analyte ion signal at the higher flow rate whilst the analyte consumption has increased by a factor of 100,000. (濃度を固定してインフュージョンする実験で、流量を 10 nL/min から 1 mL/min まで上げると、イオンシグナルは 20 倍にしかならないのに、試料消費量は 10 万倍になる)

消費量 10 万倍に対してシグナル 20 倍。効率は 5,000 分の 1 に落ちています。これは ESI が濃度感応型の検出器であること、そして高流量ではイオン化効率そのものが落ちることの帰結です。液滴径分布、単位体積あたりの液滴電荷、蒸発速度、そして MS 入口でのサンプリング効率——すべてが低流量側で有利になります。

この延長線上にあるのがナノ ESI です。Schmidt・Karas・Dülcks(2003, JASMS)は、噴霧針の口径を変えて流量を系統的に振り、混合試料中の成分間のイオン強度比が流量にどう依存するかを調べました。結論は明快です。

Analyte suppression is practically absent at minimal flow rates below 20 nL/min. (20 nL/min 未満の極低流量では、分析種同士の抑制は実質的に消える)

イオン抑制は液滴分裂の過程で成分が液滴表面と内部に分配されることに由来するため、初期液滴が十分小さければ起きようがない、という理屈です。マトリックス効果に悩んでいるなら、前処理を足す前に流量を下げる選択肢がある——これは実務的に重要な示唆です。

一方で、APCI は高流量で有利になります。Agilent の資料は理由込みで書いています。

A dedicated ESI source normally has poor sensitivity at these higher flow rates and is operated with a postcolumn split… Furthermore, operation in APCI mode becomes more attractive at higher flow rates as the analyte signal generally increases at higher flows.

4.6 mm 内径カラムを 1〜2 mL/min で回すハイスループット分析では、専用 ESI 源は感度が出ずポストカラムスプリットが要る。APCI ならむしろ流量が上がるほどシグナルが増える。カラム内径と流量が決まった時点で、イオン源の候補は絞られているわけです。

各社のイオン源が公表している流量レンジ

メーカー・イオン源 モード 対応流量 出典
Thermo OptaMax NG(Orbitrap Astral / Exploris 480) HESI 1〜1,000 µL/min PS-001797 / PS-65449
同上(低流量ニードル OPTON-30139) HESI 1〜10 µL/min PS-65449
同上(高流量ニードル OPTON-30694) HESI 5〜1,000 µL/min PS-65449
Thermo OptaMax NG(オプション) APCI 50〜1,000 µL/min(スプリット不要) PS-001797
SCIEX IonDrive Turbo V ESI / APCI 5 µL/min〜3 mL/min SCIEX 製品ページ
SCIEX OptiFlow Turbo V ESI(マイクロ) 1〜10 / 10〜50 / 50〜200 µL/min の3プローブ SCIEX 製品ページ
島津 標準 ESI ユニット ESI 最適 0.2〜0.8 mL/min 島津 分析基礎解説

島津の解説は「標準の ESI ユニットは 0.2〜0.8 mL/min で最適感度になるよう設計されており、それより高流量では感度が犠牲になるのが一般的」と明言しています。また、LC-MS では HPLC で一般的な 4.6 mm 内径よりセミミクロ(2 mm 内径)が好まれる理由も、最適流量が下がって ESI のイオン化効率が上がるからだと説明しています。

Thermo の APCI プローブが「50〜1,000 µL/min、スプリット不要」とわざわざ書いているのも同じ文脈です。APCI は高流量を素直に受けられる。

6. APCI ― 溶媒がイオン化剤になる

APCIのイオン化経路と気化温度の効果を示した図解
図解:APCI は約 400 ℃ で溶媒ごと気化し、コロナ放電で溶媒をイオン化してからプロトンを渡す。気化温度を 125 ℃ から 250 ℃ に上げるとレセルピン 10 pg の応答が 16.8 倍、RSD は 13.4% から 2.0% へ改善した。

APCI(大気圧化学イオン化)は、見た目は ESI と似ていますが原理が違います。試料溶液を窒素などのガスで約 400 ℃のヒーターに吹き込んで溶媒ごと完全に気化させ、コロナ放電針で溶媒分子をイオン化して安定な反応イオンを作る。その反応イオンと試料分子の間でプロトンが移動して(イオン分子反応)、はじめて試料がイオンになります。

ここが APCI の本質です。イオン化の効率を決めているのは、試料の性質より溶媒の性質です。島津の解説はこう書いています。

APCI requires that the solvent is protic, i.e. has sufficiently high proton affinity to display hydrogen bonding, for it to mediate ionization of the analyte. (APCI が機能するには溶媒がプロトン性である必要がある。プロトン親和力が十分高く水素結合を示すこと)

プロトン性でない溶媒を分離の都合で使わざるを得ないなら、数 % のプロトン性溶媒を足すという対処になります。また APCI は逆相・順相・サイズ排除のいずれでも使え、ESI に比べて塩の影響を受けにくいという利点があります。

移動相の PA が APCI のプロトン供与能を決める

逆相 LC で使う溶媒のプロトン親和力を NIST Chemistry WebBook から引くと、次のようになります(すべて review 値、単位 kJ/mol)。

溶媒 プロトン親和力 PA 気相塩基性 GB イオン化エネルギー IE
691 660.0 12.621 eV
メタノール 754.3 724.5 10.84 eV
アセトニトリル 779.2 748 12.20 eV

APCI では水由来の H₃O⁺ が一次反応イオンになりますが、有機溶媒が多い条件では溶媒クラスターイオンの性格が変わります。PA が高い溶媒ほど「プロトンを手放しにくい」ので、試料へのプロトン移動は起こりにくくなる代わりに、移動時の余剰エネルギーが小さくフラグメンテーションが減ります。移動相をメタノールからアセトニトリルに替えたときに APCI の応答が変わるのは、分離の変化だけが理由ではありません。

用語補足:プロトン親和力(PA)は、分子がプロトン(H⁺)を受け取るときの発熱量です。PA が高いほどプロトンを強く引きつけます。プロトン移動は「PA の低い側から高い側へ」しか自発的に起きないため、PA を比べればイオン化するかどうかが判定できます。気相塩基性(GB)は同じことをギブズエネルギーで表したものです。

気化温度が APCI の感度を決める(実測 16.8 倍)

APCI で「溶媒も試料も完全に気体にする」ことがどれだけ効くか。Agilent が同じ装置で気化温度だけを振った実測があります。

化合物 気化温度 相対応答 4回繰り返しの RSD
ジフェンヒドラミン(0.4 mL/min) 60 → 250 ℃ 1.0 → 約 5 倍
レセルピン 10 pg(1.0 mL/min) 125 ℃ 1.0 13.4%
150 ℃ 3.7 1.5%
175 ℃ 8.3 2.9%
200 ℃ 12.7 2.1%
225 ℃ 15.1 1.7%
250 ℃ 16.8 2.0%

レセルピンで 16.8 倍。しかも注目すべきは RSD 欄です。125 ℃ では 13.4% だった繰り返し精度が、温度を上げると 1.5〜2.9% に収まる。気化が不完全な領域では、感度が低いだけでなく再現性も壊れるのです。「APCI にしたけれど数字が暴れる」という症状は、まず気化温度を疑うべきだと分かります。

なお、コロナ放電の電流値は Agilent の実験条件で APCI 単独 6 µA、ESI と混合するモードで 2〜4 µA が使われています。数 µA のオーダーです。

7. APPI ― 10.6 eV の窓と、ドーパントという仕掛け

APPIの光子エネルギーの窓と溶媒・ドーパントのイオン化エネルギーを示した図解
図解:クリプトンランプの 10.0 / 10.6 eV が窓になる。水・アセトニトリル・メタノールはこれより IE が高くイオン化されない。だから IE の低いドーパント(トルエン・アニソール・アセトン)を加える。

APPI(大気圧光イオン化)は、APCI のコロナ放電針を真空紫外(VUV)ランプに置き換えたものです。ハードウェアはほぼ同じで、ネブライザとヒーターで溶媒を気化させるところまでは APCI と変わりません。違うのは、イオン化のきっかけが放電ではなく光子であることです。

APPI を理解する鍵は「光子のエネルギーが窓になっている」という点です。クリプトン放電ランプが出す光子は 10.0 eV と 10.6 eV(波長 124 nm と 117 nm)。これより低い IE を持つ分子だけが光イオン化されます。

ここで逆相 LC の溶媒と大気成分の IE を NIST WebBook から並べてみると、この窓の意味が分かります。

物質 イオン化エネルギー IE Kr ランプ(10.6 eV)で光イオン化されるか
窒素 15.581 eV されない
酸素 12.0697 eV されない
12.621 eV されない
アセトニトリル 12.20 eV されない
メタノール 10.84 eV されない(僅差)
トルエン(ドーパント) 8.828 eV される
アニソール(ドーパント) 8.20 eV される
アセトン(ドーパント) 9.703 eV される

移動相も空気も光イオン化されない。これが APPI の選択性の源であり、同時に弱点でもあります。溶媒がイオン化されないということは、APCI のように溶媒がイオン化を仲介してくれないということだからです。試料を直接光イオン化して M⁺・を作るしかなく、その効率は高くありません。

そこでドーパントを入れます。ランプで確実にイオン化される物質を大量に加えて、そのイオンを介して試料へ電荷やプロトンを渡す。これが APPI の実装です。原著(Robb, Covey & Bruins, Anal. Chem. 2000)の要旨がこの設計思想をそのまま述べています。

In the new method, large quantities of an ionizable dopant are added to the vapor generated from the LC eluant… Using APPI, at an LC flow rate of 200 µL/min, it is possible to obtain analyte signal intensities 8 times as high as those obtainable with a commercially available corona discharge-atmospheric pressure chemical ionization source. (LC 溶出液から生じた蒸気に、イオン化可能なドーパントを大量に加える…APPI では 200 µL/min の流量で、市販のコロナ放電式 APCI 源の 8 倍の信号強度が得られる)

ドーパントを選ぶときは、上の表の IE に加えて PA も見ます。トルエンの PA は 784.0 kJ/mol、アセトンは 812、アニソールは 839.6(NIST review 値)。IE が低いほど光でイオン化されやすく、PA が低いほど試料にプロトンを渡しやすい——この2軸で決まります。トルエンが標準的なドーパントとして定着しているのは、この 2 つのバランスが良いからです。

注意:ドーパント間の感度比較には、グラフから読み取った数値が二次資料に多く流通しています。本記事では原著で確認できた「APCI 比 8 倍」(Robb 2000)と、NIST の物性値のみを採りました。

8. マトリックス効果 ― APCI のほうが強い。それでも ESI が第一選択である理由

ESIとAPCIのマトリックス効果比較を示した図解
図解:マトリックス効果を受けにくいのは APCI。それでも ESI が第一選択とされるのは、熱に弱い未知代謝物が壊れると「最初から無かったこと」になるため。イオン抑制は血漿濃度を最大 5.5 倍過小評価させた。

イオン源の選択は、純溶媒での感度だけでは決まりません。実試料では共存成分がイオン化を邪魔します(イオン抑制/マトリックス効果)。この観点で ESI と APCI を直接比較した古典的な報告が、Bayer の薬物動態部門から出ています(Schuhmacher et al., Rapid Commun. Mass Spectrom. 2003)。

要旨の結論は2段構えで、後半が重要です。

The comparison of matrix effects using either electrospray (TurboIonspray, TISP) or atmospheric pressure chemical ionization (APCI) indicated that APCI is less prone to matrix effects. Nevertheless, TISP is usually the first choice of ionization technique since unknown thermally labile metabolites might be present in the plasma samples causing erroneous results. (ESI と APCI の比較では APCI のほうがマトリックス効果を受けにくい。にもかかわらず ESI が通常は第一選択である。血漿試料には熱に弱い未知の代謝物が存在しうるからだ

これはイオン源選定の判断構造そのものです。マトリックス耐性という単一指標では APCI が勝つ。しかし「何が入っているか分からない試料」に対しては、壊さないことのほうが優先される。 APCI は約 400 ℃ の気化を伴うので、熱に弱い代謝物が分解すれば、その代謝物は最初から存在しなかったことになってしまいます。

同じ報告は、イオン抑制が定量に与える影響も数値で示しています。静脈内投与後の血漿濃度がイオン抑制によって最大 5.5 倍も低く出て、その結果 AUC が過小評価され、血漿クリアランスが過大に算出された。開発候補化合物の選抜を誤らせかねない大きさです。対処としては、除タンパク上清を10 倍・50 倍と段階希釈して検量線・QC も含めて同じ扱いにすることで、マトリックス効果を認識・除去できたと報告されています。

Agilent の資料も、熱に弱い化合物の具体例を実測で示しています。抗がん剤タキソールは、気化温度 150 ℃ の APCI モードではほとんど応答が出ません。同じ装置の ESI モードや混合モードでは問題なく測定でき、プロトン付加分子以外のピークはわずかしか出ない(=分解していない)。

マトリックス効果の測り方と受容基準はLC-MSトラブルシューティングICH M10 バイオアナリシスで扱っています。前処理側での対処は前処理・SPEカラムの選び方を参照してください。

9. 複合イオン源と新方式 ― 妥協点はどこにあるか

「ESI と APCI で別の 89% を拾う」なら、両方同時にやればいい。この発想で作られたのが複合イオン源です。

メーカー 名称 方式 確認できた仕様
Agilent マルチモードイオン源(MMI) ESI ゾーンと APCI ゾーンを空間的に分離し、セパレータで仕切って同時イオン化 ESI/APCI/混合をソフトから切替。IR エミッタ最大 270 W、100% 水を 2 mL/min まで完全気化し 250 ℃ を維持
島津 DUIS(Dual Ion Source) 標準 ESI プローブに APCI コロナ針と高圧電源を統合し、切替なしで連続同時イオン化 直列配置の正負電源による15 ms 極性切替(DUIS-2020)
Waters ESCi ESI と APCI を切り替えて ESI+/ESI−/APCI+/APCI− のメソッドを開発 標準搭載のマルチモード源
SCIEX DuoSpray(TripleTOF 用) ESI と APCI を1つの源に 製品ページに記載

複合イオン源は感度を犠牲にするのか

Agilent の実測(1 pg レセルピン反復注入、同一装置)は次のとおりです。

モード S/N
正イオン APCI 単独 36
正イオン ESI 単独 32
正イオン 混合(同時 ESI+APCI) 36

同資料は、この値が同じ装置の専用 ESI 源・専用 APCI 源とも同等であり、当時の専用源の感度仕様は 20:1 だったと記しています。つまり少なくとも 1 化合物を同条件で測るかぎり、混合モードにしたことによる感度の犠牲は基本的にない。

では代償はどこにあるか ― メーカー自身が書いている限界

ここが本節の要点です。Agilent は自社製品の資料に、次の限界を明記しています。

While the instrument with a multimode source has excellent response for a single compound… this does not mean that all compounds in the same analysis will "respond well." …An example of this would happen if two compounds coeluted, but each needed a significantly different vaporizer temperature for optimal response. In this case, one must select a compromise temperature for the vaporizer. (単一化合物では優れた応答が得られるが、それは同じ分析中の全化合物が「よく応答する」ことを意味しない。共溶出する2成分の最適気化温度が大きく違えば、妥協した温度を選ばざるを得ない)

さらに「混合モードでイオン化できる化合物が増えるほど、どこかのパラメータで妥協設定を使わざるを得なくなる可能性が高くなる」とも書いています。

複合イオン源が解決するのは「イオン化の経路がない」という問題であって、「最適条件が化合物ごとに違う」という問題は解決しません。スクリーニングでは前者が支配的なので複合イオン源が効き、精密定量では後者が支配的なので専用源+最適化が効く。この線引きが、複合イオン源を入れるかどうかの判断基準になります。

なお Agilent の混合モードには副次的な利点もあります。ESI と APCI を交互に切り替える運用ではシグナルを2本監視するためピークあたりのスキャン数が半減しますが、同時モードなら1本で済むのでピーク当たりのスキャン数が約 2 倍になります(切替時間がゼロだったとしても同じ)。窒素消費も、混合源で 5〜7 L/min に対し専用 ESI 源では 12〜14 L/min が通常だと記載されています。

UniSpray ― 高電圧をターゲットピンにかける

Waters の UniSpray は、キャピラリーを接地して円筒形のターゲット(インパクターピン)側に高電圧をかけ、高速噴霧をそこに衝突させる方式です。液滴がピンに衝突して微細化し、コアンダ効果で下流へ流れます。白書によれば、電圧は一価イオンで typically 1 kV、ペプチドやタンパク質のような多価イオンでは 3〜4 kV が必要。ネブライザは内径 130 µm・外径 220 µm の送液キャピラリーを内径 330 µm のチューブが囲む構成です。

性能については、Waters 自身の評価と第三者の評価で読み取り方が変わります。

Waters の評価(Smith & Rainville, Application Brief 720006278):分子量 151〜824 の医薬品ライブラリ 156 化合物を ESI と UniSpray で比較したところ、70% 超の化合物で UniSpray のピーク面積が ESI 以上。pKa や LogP との相関は見られず、化合物を選ばない挙動だったとしています。ヒト血清の除タンパク上清にスパイクした 37 化合物で 6〜1800 回目までの連続注入(約6日間)を行い、RSD は 1.9〜16%。高い RSD は検出下限に近い化合物で見られたと注記されています。

第三者の評価(Galani et al., Anal. Bioanal. Chem. 2019):コーヒー・リンゴ・水の3マトリックスで農薬 81 成分を QuEChERS + LC-MS/MS で分析し、ESI と UniSpray を直接比較しました。結果は次のとおりです。

  • ピーク面積で 22〜32 倍、ピーク高さで 6〜7 倍の利得
  • S/N で 3〜4 倍の向上
  • 回収率は最大 2 倍改善、直線性と精度は ESI と同等
  • マトリックス抑制は UniSpray のほうが小さい

ここまでは良い話ばかりですが、同じ要旨の最後にこう書かれています。

A gain in sensitivity of many compounds was observed with US, but in general, the two ionization interfaces did not show significant difference in LOD and LOQ. (多くの化合物で感度利得が見られたが、一般に2つのイオン化インターフェースは LOD と LOQ に有意差を示さなかった

ピーク面積が 22〜32 倍になっても、検出限界と定量限界は変わらなかった。 シグナルと一緒にノイズも増えていれば当然の帰結です。カタログの「◯倍高感度」が何の倍率なのか——ピーク面積なのか、S/N なのか、LOQ なのか——を確認しないと、期待した性能は得られません。これは質量分析計の選び方で述べた「カタログ感度は横並び比較できない」という問題と同じ構造です。

10. GC 側 ― 70 eV EI の標準化と、その代償

70 eV EI の標準化とその代償を示した図解
図解:70 eV は再現性のための標準。代償として NIST ライブラリの約 30%(分子量 300 超では 50%)で分子イオンが出ない。低エネルギー EI はソフトイオン化ではなく、エミッション電流は 5 µA から 0.3〜1 µA へ落ちる。

GC-MS のイオン源は、事実上 EI(電子イオン化)の 70 eV が標準です。フィラメントから出た高エネルギー電子を気相の分子に当ててイオン化し、同時に激しく開裂させます。

なぜ 70 eV なのか。理由は物理ではなく再現性にあります。島津の解説はこう説明しています。

Given that the energy provided by EI is uniform (e.g. 70 eV), the electron ionization and fragmentation process is very reproducible, generating the same fragment ion species at pre-determined intensity ratios. For this reason, the mass spectra produced by EI is commonly used to identify unknown samples and peaks by matching acquired spectra to the spectrum library.

70 eV 付近ではイオン化効率が高く、しかも電子エネルギーが多少ずれてもフラグメンテーションパターンがほとんど変わりません。だからメーカーが違っても、研究室が違っても、同じ化合物なら同じスペクトルが出る。この安定性があるからライブラリ照合という手法が成立しているわけです。GC-MS が「名前と構造を異性体レベルで返せる」唯一の日常的手法であるのは、70 eV の標準化のおかげです。

代償:分子イオンが消える

しかし 70 eV は、分子イオンを保つには強すぎます。この代償を最も明確に数値化しているのは、Cold EI を開発したテルアビブ大学の Amirav らです(同氏は Cold EI 技術の当事者なので、その前提で読む必要があります)。

about 30% of the NIST library compounds have no molecular ion (below 1% normalized intensity) with standard EI. This value is increased to 50% for compounds with molecular weight over 300 amu. (標準 EI では NIST ライブラリ収載化合物の約 30% で分子イオンが観測されない(規格化強度 1% 未満)。分子量 300 amu を超える化合物ではこの割合が 50% に上がる)

ライブラリに載っている化合物の 3 分の 1 で分子イオンが消えている。分子量が 300 を超えると 2 つに 1 つ。未知化合物の分子式を推定したいときに、分子イオンが無ければ話が始まらない——これが 70 eV EI の構造的な限界です。

低エネルギー EI は「ソフトイオン化」ではない

そこで電子エネルギーを下げる(低エネルギー EI、Agilent では 9〜17 eV、Thermo では VeV として 10 または 12 eV)という手があります。ただしこれには、はっきりした注意書きが必要です。

Margolin Eren・Elkabets・Amirav(J. Mass Spectrom. 2020;55:e4646)は 46 化合物の EI スペクトルを 70 eV・低エネルギー・Cold EI で比較し、次のように結論しています。

Low eV EI is not a soft ionization method, and it has little or no influence on the molecular ion relative abundances for large molecules and those with weak or no molecular ions. Low eV EI for compounds with abundant or dominant molecular ions in their 70 eV mass spectra results in the reduction of low mass fragment ions abundances thereby reducing their NIST library identification probabilities thus rarely justifies its use in real-world applications. (低エネルギー EI はソフトイオン化ではない。大きな分子や分子イオンが弱い/無い化合物では、分子イオンの相対強度にほとんど影響しない。70 eV で既に分子イオンが豊富な化合物では、低質量フラグメントを減らすことで NIST ライブラリの同定確率をむしろ下げる

つまり低エネルギー EI は、「分子イオンを増やす」のではなく「低質量フラグメントを減らす」ことで、見かけ上の分子イオン相対強度を上げているにすぎない場合がある。そしてライブラリ照合に必要な低質量イオンを削ってしまうので、同定確率は下がりうる。

同じ論文は、もう1つ実務に効く指摘をしています。

Different standard EI ion sources provide different 70 eV EI mass spectra. Among the Agilent technologies ion sources, the "Extractor" exhibits relatively abundant molecular ions compared with the "Inert" ion source, while the "High efficiency source" (HES) provides mass spectra with depleted molecular ions compared with the "Inert" ion source or NIST library mass spectra. (標準 EI イオン源が違えば、同じ 70 eV でも異なるマススペクトルが得られる。Agilent の Extractor 源は Inert 源に比べて分子イオンが豊富で、高効率源(HES)は Inert 源や NIST ライブラリのスペクトルに比べて分子イオンが枯渇したスペクトルを与える)

「70 eV EI は標準化されている」は、イオン源の型まで含めると完全には成り立ちません。同じメーカーの同じ 70 eV でも、イオン源の設計が違えば分子イオンの見え方が変わる。高感度化のために HES を入れたら、分子イオンが減ってライブラリとの一致が悪くなる——という状況が起こりうるということです。

低エネルギー EI の物理的な代償も、Agilent のポスターに数値で出ています。

モード 電子エネルギー エミッション電流 イオン源温度
標準 EI 70 eV 5 µA 200〜280 ℃
低エネルギー EI 9〜17 eV 0.3〜1 µA 200 ℃
正イオン CI(PCI) 110 eV 150 µA 280 ℃
負イオン CI(NCI) 70〜200 eV 50〜130 µA 150 ℃

エミッション電流が 5 µA から 0.3〜1 µA へ。電子の数そのものが 5〜17 分の 1 になります。低エネルギー EI で感度が落ちるのは、この物理量の直接の帰結です。

11. CI と NCI ― 試薬ガスはプロトン親和力で選ぶ

CIとNCIの検出限界とプロトン親和力を示した図解
図解:試薬ガスは試薬イオンの共役塩基のプロトン親和力で選ぶ。NCI はオクタフルオロナフタレンで 0.5 fg、正イオン CI は 3.4 pg。ただし 1 つの手法で全部は測れない。

CI(化学イオン化)は、イオン源に試薬ガスを大量に入れ、電子でまず試薬ガスをイオン化し、その試薬イオンから試料へプロトンを渡す方式です。ここでも判定基準は PA です。プロトンは PA の低い側から高い側へしか移らない。

重要なのは、「試薬ガスの PA」ではなく「試薬イオンの共役塩基の PA」で判定することです。実際に生じる試薬イオンから逆算します(NIST WebBook の review 値、kJ/mol)。

試薬ガス 主な試薬イオン プロトンを渡した後の中性種 その PA 性格
メタン CH₅⁺ メタン 543.5 最も強いプロトン供与体。ほぼ何でもイオン化するが余剰エネルギーが大きく開裂しやすい
メタン C₂H₅⁺ エチレン 680.5 同上(メタン CI では両方が生じる)
イソブタン t-C₄H₉⁺ イソブテン 802.1 中庸。[M+H]⁺ を主に与える
アンモニア NH₄⁺ アンモニア 853.6 最も選択的。PA が 853.6 を超える塩基性化合物だけをプロトン化し、それ以外には [M+NH₄]⁺ アダクトを与える
メチルアミン(メタンに 5% 混合) CH₃NH₃⁺ メチルアミン 899.0 さらに選択的。開裂が最も少ない

注意:一部の二次資料はイソブタンの PA として 824 kJ/mol 前後の値を挙げますが、NIST WebBook のイソブタン自体の PA は 677.8 kJ/mol、CI で意味を持つイソブテンの PA は 802.1 kJ/mol です。「試薬ガスの PA」と「試薬イオンの共役塩基の PA」は別物なので、混同すると判断を誤ります。

トレードオフ:PA が高いほど、感度は下がる

Thermo の Orbitrap GC-MS のポスター(Zheng et al., 2018)が、このトレードオフを実測で示しています。TMS 誘導体化した代謝物を、100% メタンと「5% メチルアミン/95% メタン」で比較したものです。

It is commonly accepted that relative sensitivity drops as the proton affinity of the reagent gas increases. Thus, the TIC intensities generated from 5% methylamine is lower than that of 100% methane, but the absolute intensities of [M+H]+ ions increase on average and the relative fragmentation percentage over the total ion chromatogram, ([M+H]+/TIC), is dramatically higher… The average of [M+H]+/TIC with 5% methylamine (30% on average) is six times higher than that of 100% methane (5% on average).

TMS 化アミノ酸で、[M+H]⁺ が全イオンに占める割合が 平均 5% → 平均 30%(6 倍)。ただし TIC 全体の強度は落ちています。「分子イオン情報の取りやすさ」と「絶対感度」は逆方向に動くわけです。

同ポスターはアンモニア CI の注意点も挙げています。ハロゲン・アセチル・ヒドロキシ・チオール・アルコキシといった脱離基を持つ酸に弱い化合物では、アンモニアを試薬ガスにするとかえって開裂が増え、プロトン付加分子が出ないことが多い(Little & Howard, JASMS 2013 を引用)。ソフトな試薬ガスが常にソフトな結果を与えるとは限りません。

そして結論部の一文が、この節の実務的な要点です。

It is necessary to alternate them when one approach yields poor molecular ion information for certain compounds. (ある化合物で片方が分子イオン情報をうまく出さないなら、もう片方に切り替える必要がある)

低エネルギー EI と CI は、どちらかが優れているのではなく、互いの穴を埋め合う関係にあります。

NCI ― ハロゲン化合物に対する桁違いの感度

NCI(負イオン化学イオン化。電子捕獲負イオン化とも)は、試薬ガスで減速させた熱電子を電子親和力の高い分子に捕獲させる方式です。ハロゲンやニトロ基を持つ化合物に対する感度は桁が違います。Agilent の同じポスターから、メタンを試薬ガスとした実測値です。

測定 化合物 検出限界(オンカラム)
正イオン CI(PCI) ベンゾフェノン(10 pg/µL 注入から算出) 3.4 pg
負イオン CI(NCI) オクタフルオロナフタレン(10 fg/µL 注入から算出) 2.3 fg
負イオン CI(NCI) オクタフルオロナフタレン(1 fg/µL 注入から算出) 0.5 fg

3.4 pg 対 0.5 fg で、およそ 3〜4 桁の差です。同じポスターは、ブロッコリー抽出液にスパイクした農薬の NCI 検出限界(1 µL 注入)も報告しています。フォノホス 0.9 pg、テフルトリン/ジクロラン 1.1 pg、クロルピリホス/エチオン/パラチオン 1.2 pg、リンデン/トリフルラリン/クロルフェンビンホス 1.6 pg、メチダチオン 2.9 pg——マトリックス中で 1 pg 前後

NCI は選択性でも効きます。同ポスターは、コナゾール系農薬(エタコナゾール・プロピコナゾール・ジフェノコナゾール)の cis/trans 立体異性体を NCI で識別できたと報告しています。70 eV EI ではトリアゾール環の脱離(m/z 259.0289)とジオキソラン環の開裂(m/z 172.9555)で激しく壊れて識別できませんが、NCI では cis 体の分子イオン(M⁻)の相対存在比が エタコナゾール 20%、プロピコナゾール 29%、ジフェノコナゾール 24% で観測されるのに対し、trans 体では 4% 未満イオン源を替えるだけで立体異性体が区別できるようになる例です。

それでも NCI 一本では足りない

ここで、メーカー資料ではなく査読論文の結論を置いておく必要があります。Raina & Hall(Anal. Chem. Insights 2008)は、大気試料中の 50 種類以上の農薬(有機塩素・有機リン・発芽前除草剤)について GC-EI/SIM・GC-NCI/SIM・GC-NCI/SRM・GC-EI/SRM を横並びで比較しました。要旨の1文目に近い位置に、こうあります。

No one method could be used to analyze the range of pre-emergent herbicides, OPs, and OCs investigated. (調べた発芽前除草剤・有機リン・有機塩素の全範囲を、1つの手法で分析することはできなかった)

内訳はこうです。

  • GC-NCI/SIM が総じて最も低い検出限界(MDL は多くが 2.5〜10 pg/µL)を与え、イオン比による確認も最良(RSD < 25%)
  • GC-EI/SIM は妨害を受けやすいが、NCI での応答が悪い農薬(有機リンのスルホテップ・ホレート・アスポン・エチオン、有機塩素のアラクロール・アルドリン・パーセン、DDE/DDD/DDT)については MDL 1〜10 pg/µL で良好
  • GC-EI/SRM は 100 pg/µL 未満では大半の農薬に不適

NCI で応答しない化合物が実名で挙がっているのが重要です。DDT や DDE のような、いかにも NCI が効きそうな有機塩素でさえ、EI のほうが良い。冒頭の「別の 89%」問題は、GC 側でもそのまま成り立っています。

定量的な差の実例としては、Húsková ら(J. Chromatogr. A 2009)がリンゴ中の内分泌かく乱性農薬 23 成分を QuEChERS で前処理し、メタン NCI と EI で検量線を比較しています。NCI は 0.1〜500 µg/kg(R² > 0.999)で検量線が引けたのに対し、EI は 5〜500 µg/kg(R² > 0.99)。定量できる下限が 50 倍違い、繰り返し精度(絶対ピーク面積の RSD)も大半の化合物で 10% 未満、NCI のほうが有意に良好でした。

12. 目的別の選択 ― 何を測るかで決まる

目的別のイオン源選択マトリックスを示した図解
図解:熱に弱い・高極性なら ESI、高流量・熱に安定なら APCI、無極性なら APPI、揮発性で名前を特定したいなら EI 70 eV、ハロゲン化合物の超微量なら NCI。導入前は「その◯倍が何の倍率か」を確認する。

ここまでの数値を、目的別に整理します。

状況 第一選択 理由(本文の該当節)
高極性・イオン性・タンパク質・熱に弱い化合物 ESI 溶液中で既にイオン。多価イオンで分子量範囲を超えられる(4節)
中〜低極性、熱に安定、高流量(1〜2 mL/min) APCI 流量が上がるほど有利。塩に強い(5・6節)
無極性、プロトンをやり取りする官能基が無い APPI 光イオン化+ドーパント。APCI 比 8 倍の報告あり(7節)
マトリックス効果が支配的で、化合物は既知・熱に安定 APCI ESI よりマトリックス効果を受けにくい(8節)
未知代謝物を含む生体試料 ESI 熱で分解した代謝物は「無かったこと」になる(8節)
極微量しかない試料・イオン抑制が深刻 低流量/ナノ ESI 20 nL/min 未満で分析種抑制が実質消失(5節)
未知試料のスクリーニング 複合イオン源 専用源はそれぞれ別の約 1 割を取りこぼす(3・9節)
揮発性・熱安定で、名前を特定したい EI 70 eV ライブラリ照合が異性体レベルで効く唯一の手法(10節)
GC で分子イオンが欲しい CI(試薬ガスを PA で選ぶ) 低エネルギー EI はソフトイオン化ではない(10・11節)
ハロゲン・ニトロ化合物の超微量分析 NCI PCI 比で 3〜4 桁の検出限界差(11節)

導入前に確認すべきこと

  1. 自分の流量で使えるか。 カタログの感度は最適流量での値です。1 mL/min で回すなら、専用 ESI 源はポストカラムスプリットが要るかもしれません(5節の表)。
  2. 「◯倍高感度」が何の倍率か。 ピーク面積か、S/N か、LOD/LOQ か。UniSpray はピーク面積 22〜32 倍でも LOD/LOQ に有意差なしという報告があります(9節)。
  3. プローブやニードルの交換が要るか。 Thermo の OptaMax NG は 1〜10 µL/min と 5〜1,000 µL/min でニードルの型番が別、SCIEX の OptiFlow はマイクロ域だけで 3 プローブに分かれています。
  4. イオン源の型でスペクトルが変わらないか。 GC-MS では同じ 70 eV でも Extractor / Inert / HES で分子イオンの見え方が違います(10節)。ライブラリ照合を前提にするなら、この差は無視できません。
  5. 切替に何が必要か。 島津 DUIS のようにハードを触らずソフトだけで ESI/APCI/DUIS を選べるものと、プローブを物理的に交換するものでは、メソッド開発の時間が変わります。
  6. 共溶出成分の最適条件が違わないか。 複合イオン源で全部を一度に測る設計は、パラメータの妥協を前提にしています(9節)。精密定量なら専用源+個別最適化のほうが強い場面があります。

まとめ

  • イオン源の選定とは「取りこぼしをどこに置くか」を決める作業である。 Agilent の実測では、専用 APCI 源が 89%、専用 ESI 源が 89%、しかも別の 89% を検出した。単独のイオン源で全部を測ることは原理的にできない。
  • 判定は極性という言葉ではなく、PA と IE という数値でできる。 APCI・CI はプロトン親和力、APPI・EI・NCI はイオン化エネルギーと電子親和力。NIST Chemistry WebBook を引けば、ほとんどの判断がその場でつく。
  • ESI は流量を上げるほど損をする。 10 nL/min → 1 mL/min で消費量 10 万倍・シグナル 20 倍(Waters)。20 nL/min 未満では分析種抑制が実質的に消える(Schmidt 2003)。一方 APCI は高流量で有利になる。
  • APCI は気化温度で感度も再現性も決まる。 レセルピン 10 pg で 125 → 250 ℃ が 16.8 倍、RSD は 13.4% → 2.0%(Agilent)。
  • マトリックス耐性では APCI が勝つが、それでも ESI が第一選択とされてきた。 血漿には熱に弱い未知代謝物がありうるから(Schuhmacher 2003)。イオン抑制は血漿濃度を最大 5.5 倍過小評価させた。
  • 70 eV EI の標準化には代償がある。 NIST ライブラリ収載化合物の約 30%(分子量 300 超では 50%)で分子イオンが観測されない。そして低エネルギー EI はソフトイオン化ではなく、低質量フラグメントを削ってライブラリ同定確率を下げることがある(Amirav ら 2020)。同じ 70 eV でもイオン源の型でスペクトルが変わる。
  • CI の試薬ガスは「試薬イオンの共役塩基の PA」で選ぶ。 メタン 543.5、イソブテン 802.1、アンモニア 853.6、メチルアミン 899.0 kJ/mol。PA が上がるほど開裂は減るが絶対感度は落ちる。
  • NCI はハロゲン化合物に 3〜4 桁効くが、万能ではない。 OFN で 0.5 fg on-column を達成する一方、「1つの手法で全範囲は分析できなかった」(Raina & Hall 2008)。DDT/DDE を含む具体的な農薬名で、EI のほうが良い例が挙がっている。
  • カタログの「◯倍高感度」は、何の倍率かを確認する。 ピーク面積 22〜32 倍でも LOD/LOQ に有意差なし、という査読論文の結果がある。

用語集

  • イオン化エネルギー(IE):気相の中性分子から電子を1個取り去るのに必要なエネルギー。APPI では光子エネルギー(Kr ランプで 10.0/10.6 eV)より IE が低い分子だけが光イオン化される。
  • プロトン親和力(PA):気相の分子がプロトン(H⁺)を受け取るときの発熱量。プロトン移動は PA の低い側から高い側へしか自発的に起きないため、APCI・CI でイオン化するかどうかの判定に使える。単位は kJ/mol。
  • 気相塩基性(GB):PA と同じ現象をギブズエネルギーで表したもの。PA よりエントロピー項のぶんだけ小さい値になる。
  • ESI(エレクトロスプレーイオン化):±3〜5 kV の高電圧で試料溶液を噴霧し、帯電液滴の蒸発・分裂を経てイオンを気相に放出させる方式。多価イオンを作る。
  • APCI(大気圧化学イオン化):約 400 ℃ で溶媒ごと気化させ、コロナ放電で溶媒をイオン化し、そこから試料へプロトンを移す方式。溶媒がイオン化剤として働く。
  • APPI(大気圧光イオン化):真空紫外ランプの光子で気相の分子をイオン化する方式。移動相はイオン化されないため、通常はドーパントを加えて電荷やプロトンを仲介させる。
  • ドーパント:APPI で加える、ランプで確実にイオン化される物質。トルエン(IE 8.828 eV / PA 784.0 kJ/mol)が標準的。
  • EI(電子イオン化):真空中で高エネルギー電子を当てる方式。70 eV が事実上の標準で、フラグメンテーションが再現性良く起きるためライブラリ照合が成立する。
  • CI(化学イオン化):試薬ガス(メタン・イソブタン・アンモニア等)を大量に入れ、その試薬イオンから試料へプロトンを移す方式。EI より穏やかで分子イオン情報が得やすい。
  • NCI(負イオン化学イオン化):試薬ガスで減速した熱電子を電子親和力の高い分子に捕獲させる方式。ハロゲン・ニトロ化合物に極めて高感度。
  • エミッション電流:フィラメントから放出される電子の電流値。標準 EI で 5 µA、低エネルギー EI で 0.3〜1 µA、PCI で 150 µA、NCI で 50〜130 µA(Agilent 実測条件)。
  • イオン抑制/マトリックス効果:共存成分によってイオン化効率が変わり、シグナルが減る(または増える)現象。ESI で特に顕著。
  • インパクターイオン化(UniSpray):接地したネブライザから高速噴霧を、高電圧をかけた円筒ターゲット(ピン)に衝突させてイオン化する方式。

関連記事

出典

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  21. J.L. Little, A.S. Howard「Qualitative Gas Chromatography–Mass Spectrometry Analyses Using Amines as Chemical Ionization Reagent Gases」J. Am. Soc. Mass Spectrom. 2013;24:1913-1918(出典10より引用)

制作メモ:本記事は NotebookLM のディープリサーチで 124 件のソースを収集し、そのうえで編集側が原典を開いて検証したうえで執筆しました。

検証の過程で採用しなかった数値を記録しておきます。(1) ディープリサーチが取り込んだソースのうち 1 件は URL を持たない AI 生成の合成文書("Selection of Optimal Ionization Sources in Mass Spectrometry (2024-2026)")で、各イオン源の分子量レンジ表・PA 表・APGC の適用範囲などを丸ごとこれに帰属させてきたため、すべて除外しました。(2) 同文書由来の「イソブタンの PA = 824 kJ/mol」「メタン 546」「アンモニア 858」は、NIST Chemistry WebBook を引いたところ イソブタン 677.8(CI で意味を持つイソブテンは 802.1)/メタン 543.5/アンモニア 853.6 で、特にイソブタンは値も参照すべき化学種も誤りでした。本文の表はすべて NIST の review 値に置き換えています。(3) APPI のドーパント別感度比較として提示された「トルエンで 7 倍、アセトンで 0.125 倍」等の数値は、資料中のグラフ画像から読み取ったものだったため採用していません。(4) UniSpray の「USI/ESI 比 0.3〜11.4 倍、平均 2.1 倍」も、Waters のアプリケーションノート本文を確認したところ図中の情報で、本文には「70% 超が同等以上」としか書かれていなかったため、本文の記述に合わせました。

一次資料の取得については、Agilent と Waters の PDF は curl でも WebFetch でも 403 が返るため、NotebookLM の source fulltext 経由で全文を取得して検証しています。書誌情報は Crossref API と PubMed(NCBI E-utilities)で確定しました。

図解は生成した 13 枚を 1 枚ずつ確認し、第9節ぶんの 1 枚に助詞の重複(「違うとと妥協温度になること」)があったため、その 1 枚だけ掲載を見送っています。