質量分析

【2026年版・徹底解説】質量分析の最新技術動向 ― Astralの原理から4Dプロテオミクス・ネイティブMS・空間オミクスまで

質量分析(MS)の最新動向を、アナライザーの動作原理から徹底解説する保存版。 Orbitrap Astralの「30mの非対称トラックとロスレス伝送(80%超)」がなぜ約10倍の速度・感度・分解能を生むのか、 timsTOFのTIMS/PASEFによる4Dプロテオミクス(保持時間×CCS×m/z×強度)、EAD/UVPD/SIDなど解離法の多様化、 DDA/DIA/狭窓DIAの取得戦略、メガダルトンを測るネイティブMS・電荷検出MS(CDMS)とAAV遺伝子治療QC、 そして単一細胞・空間オミクスのMSイメージングまで、2023〜2026年の最前線を入門者と専門家の双方に届ける。

質量分析(MS, Mass Spectrometry)は、分子をイオンにして「質量/電荷比(m/z)」で測り分ける手法です。 微量の同定・定量に圧倒的な力を持ち、創薬・プロテオミクス・代謝・食品・環境・臨床・遺伝子治療まで広がっています。 本記事は新製品の羅列ではなく、「なぜその装置がそこまで速く・高感度になったのか」という原理から最新動向を理解することを目指します。

この記事の読み方:第1章でMSの性能指標と装置構成を押さえると、後段のAstralやtimsTOFの凄さが具体的に分かります。 入門の方は第1章・各章冒頭・まとめ・用語集から。専門家の方は各アナライザーの原理、解離法、取得戦略、 ネイティブMS、空間オミクスの各論を深掘りしてください。

1. MSの基礎 ― 何を、何で競っているのか

質量分析計は 「イオン化部 → 質量分析部(アナライザー) → 検出部」 からなります。性能を語る指標は主に5つです。

  • 分解能(Resolving Power):近接する m/z をどれだけ分離できるか(R = m/Δm)。
  • 質量精度(Mass Accuracy):測定値が真値にどれだけ近いか(ppmで表す)。低ppmなら組成推定が可能。
  • 感度・スピード:微量を、どれだけ速く・たくさん測れるか(MS/MSの走査速度=Hz)。
  • ダイナミックレンジ:同一スペクトル内で、高存在量と微量を同時に捉えられる幅。
  • 分離の次元:m/z だけでなく、形・大きさ(イオンモビリティ)でも分けられるか。

イオン化法

  • ESI(エレクトロスプレー):LCと相性が良く、タンパク質など大きな分子を多価イオン化。生体分析の主役。
  • MALDI:マトリックスと共結晶化した試料にレーザー照射。イメージングや高分子に強い。
  • アンビエント(DESI/DART):前処理ほぼ無しでその場測定。

アナライザーの類型

四重極(QQQ)、イオントラップ、飛行時間型(TOF)、Orbitrap、FT-ICR、そして新しいAstral。 ルーチン定量はQQQ、高分解能はOrbitrap/FT-ICR/TOF、と役割分担してきました。近年の革新は、 「高分解能を保ったまま、TOF級の速度・感度を得る」方向に集約されています。

2. アナライザー革命 ― Orbitrap Astralの原理

構成:四重極 + 高磁場Orbitrap + Astralアナライザー

Thermo Fisherの Orbitrap Astral(2023年登場)は、四重極マスフィルター高磁場Orbitrap、そして 新規のAstralアナライザーを組み合わせたハイブリッド機です。Astral = ASymmetric TRack Lossless (非対称トラック・ロスレス)の略で、その名が原理を表しています。

なぜ速く・高感度なのか:30mの非対称トラックとロスレス伝送

Astralアナライザーは、一対の細長い非対称イオンミラーを持ち、イオンはその間で多数回の振動を繰り返しながら、 初期の傾きによってミラーの長手方向へゆっくりドリフトしていきます。実効飛行距離は約30mに達し、 高い分解能を生みます。最大の特徴はロスレス(低損失)伝送で、入射イオンの80%以上を検出できます (従来型では1〜5%程度)。この「ほとんど捨てない」性質が、高い感度と高速取得を同時に実現する核心です。

補足:従来のオルソゴナル加速TOFは、デューティサイクル(実際に検出に使えるイオンの割合)が低く、 高速化すると感度が犠牲になりがちでした。Astralはロスレス設計とAGC(自動ゲイン制御)により、 スペクトル平均化に頼らず、高速でもダイナミックレンジとデータ品質を保てます。

並列取得:Orbitrapで高分解能MS1、Astralで高速MS2

運用上の妙は、OrbitrapとAstralを並列に走らせる点です。Orbitrapで高分解能のMS1(精密質量)を取りながら、 Astralで高速・高感度のMS/MS(MS2)を回します。これにより、Astralは>200 HzのMS/MS走査、低ppmの質量精度を実現。 DIA(後述)では、長年の標準だったOrbitrap単体機に対し、単位時間あたり約5倍のペプチドを定量できると報告されています。 総じて、従来Orbitrapの約10倍の速度・感度・分解能という評価です。

後継:Orbitrap Astral Zoom と Excedion Pro

後継機 Orbitrap Astral Zoom(および Orbitrap Excedion Pro)では、前世代Astral比で 走査速度が約35%高速、スループットが約40%向上、多重化能力が約50%拡大。イオンの事前蓄積で利用効率を高め、 MS/MS走査を最大270 Hz1日300サンプル(300 SPD)で約10万種のユニークペプチド・8,400以上のタンパク質を同定 できると報告されています。プロテオミクスの「深さ × スループット」を両立する進化です。

3. イオンモビリティ ― timsTOFと4Dプロテオミクス

TIMSの原理:質量に独立した「形・大きさ」の分離軸

Brukerの timsTOF は、TIMS(Trapped Ion Mobility Spectrometry, トラップ型イオン移動度) とTOFを組み合わせた装置です。 イオンモビリティは、イオンがガス中を移動する速さ=衝突断面積(CCS, Collision Cross Section)=形・大きさで分離する技術で、 m/zとは独立した分離軸になります。TIMSはガス流でイオンを押し、電場でせき止めて溜め、電場を緩めて 大きさ順に放出する方式で、CCSを最大0.1%の精度で再現性高く測れます。

PASEFと4D ― 速度を落とさず感度を上げる

timsTOFの核心が PASEF(Parallel Accumulation–Serial Fragmentation, 並列蓄積・逐次断片化) です。 TIMSでイオンを大きさ順に整列させ、四重極をそれに同期させて次々と断片化することで、 感度を落とさずにシーケンス速度を倍増させます。得られる特徴量は、 保持時間 × CCS × m/z × 強度の4次元(4Dプロテオミクス)。CCSという独立軸が加わることで、 同重体・夾雑の多い試料でも選択性が上がります。

dia-PASEFと最新機

dia-PASEF はDIA(後述)とPASEFを統合し、ほぼ100%のイオンサンプリング効率を達成します。 最新の timsTOF Ultra は、dda-PASEFを300 Hzまで高速化し、毎分最大18,000のCCS付きMS/MSスペクトルを取得、 VistaScan により dia-PASEF 4Dプロテオミクスを強化しています。さらにBrukerは proteoformics(同一遺伝子由来の多様なタンパク質アイソフォーム解析)を掲げ、 イオン濃縮や機械学習による同位体分解を備えたtimsOmni、代謝物網羅のtimsMetaboなどの新世代機を展開しています。

4. 解離法の多様化 ― 構造・修飾・トポロジーを読む

MS/MSでイオンをどう壊すか(解離法)が、得られる構造情報を左右します。定番のCID/HCD(衝突誘起解離)に加え、 近年は電子・光・表面を使う多彩な解離法が実装されています。

  • EAD(Electron Activated Dissociation, 電子活性化解離):SCIEX ZenoTOF系が搭載。 ペプチドの翻訳後修飾(PTM)の局在決定、脂質の二重結合位置、異性体の識別に強い。
  • ETD / ECD(電子移動/電子捕獲解離):ペプチド骨格をc/zイオンで切り、PTMを保ったまま配列決定。
  • UVPD(紫外光解離):高エネルギー紫外光で多様な開裂を誘起。トップダウンや脂質に有用。
  • SID(表面誘起解離):イオンを表面に衝突させ、非共有結合の複合体をサブ複合体へほどく。 ネイティブMSで複合体のトポロジーを読む(後述のAAVカプシド解析など)。

SCIEX ZenoTOF

SCIEXの ZenoTOF は、Zenoトラップでイオンの取りこぼし(デューティサイクル)を改善し感度を底上げしたTOFで、 EADとの組み合わせが特徴です。上位機 ZenoTOF 8600 は2025年のASMSで公開され、受注・設置も進んでいます。

5. 取得戦略 ― DDA / DIA / 狭窓DIA

同じ装置でも「どう測るか(取得法)」で結果が大きく変わります。

  • DDA(Data-Dependent Acquisition):MS1で強いイオンを選んでMS/MS。再現性に弱点(測るたびに対象が変わる)。
  • DIA(Data-Independent Acquisition):一定の質量窓をまとめて断片化し、網羅的に取得。再現性・定量性に優れる。
  • 狭窓DIA(narrow-window DIA, nDIA):DIAの質量窓を細かくし、スペクトルの複雑さを下げて同定深度を高める。 Astralの超高速MS/MSと組み合わさり、ラベルフリー定量の網羅性を飛躍させた(Nature Biotechnology, 2023)。 血漿グライコプロテオームの高速・高深度解析(Astral nDIA, 2024)など応用が広がる。
  • 多重化(TMT):同重体タグで複数試料を1回の分析に束ね、スループットを上げる。Astral上でのTMT多重化も実証。

6. ネイティブMS・電荷検出MS(CDMS) ― メガダルトンを測り、遺伝子治療を支える

ネイティブMSとは

ネイティブMSは、タンパク質や複合体を非変性条件(折りたたまれたまま・非共有結合を保ったまま)でイオン化し、 そのままの状態で測る手法です。複合体の化学量論やトポロジーを直接観測できます。

電荷検出MS(CDMS)とAAV遺伝子治療

巨大で不均一な対象(メガダルトン級)では、通常のMSは電荷状態が分からず質量を決められません。 CDMS(Charge Detection MS)は、単一イオンのm/zと電荷を同時に測ることで、直接質量を求めます。

これがAAV(アデノ随伴ウイルス)遺伝子治療の品質管理で重要になっています。

  • AAVカプシドは約3.7 MDa。CDMSは空カプシド/フル(ゲノム封入)カプシドの比を直接評価でき、製剤の重要品質特性になる。
  • Orbitrapベースのマルチマス解析でAAVの多様性を分解、SIDでカプシド(約3.7 MDa)を 三量体含有フラグメント(3量体・6量体・9量体…)へ解離してトポロジーを読む研究も。
  • ネイティブ電子捕獲・電荷低減m/z 20万を超える巨大バイオ医薬の重なり合うシグナルを解きほぐす手法も登場。

抗体医薬・核酸医薬・遺伝子治療の伸長を背景に、ネイティブMS/CDMSは「巨大で不均一な医薬品を丸ごと測る」基盤になりつつあります。

7. 空間オミクス ― 単一細胞とイメージングMS

「どこに、何が、どれだけあるか」を組織上で可視化するMSイメージング/空間オミクスが急進展しています。

  • MALDI-MSI(単一細胞解像度):2024年のプロトコルでは、約400 nmのマトリックス結晶で単一細胞のタンパク質を イメージングし、約7,800細胞/日のスループットを達成。単一乳がん細胞から89のペプチド様特徴を検出した例が報告。
  • 空間マルチオミクス:同一組織切片でMSI代謝物イメージング + イメージングマスサイトメトリー(免疫表現型)を統合し、 単一細胞解像度で代謝の不均一性を可視化(Nature Methods, 2024)。
  • 組織拡大法:MALDI-MSI適合の組織拡大(約2倍)で、亜細胞・単一細胞レベルの形態解像を高める試み。
  • DESIなど前処理の軽いアンビエントイメージングも創薬・病理で活用。

感度・空間解像度・取得アルゴリズム・マルチオミクス統合には改良余地が残るものの、機械学習との組み合わせで 亜細胞レベルの空間オミクスへ向かっています。2025年のASMSでも、これらが複雑化する課題への新技術の中心でした。

8. 応用の広がり

  • プロテオミクス:Astral nDIA / dia-PASEF で深度とスループットが両立。シングルセル・血漿への展開。
  • メタボロミクス/リピドミクス:高分解能+イオンモビリティ+EADで異性体・二重結合位置まで。timsMetaboなど。
  • グライコプロテオミクス:糖鎖の不均一性を高速nDIAで網羅。
  • バイオ医薬・遺伝子治療:ネイティブMS/CDMSでmAb・ADC・AAVの完全性、空/フル比を評価。
  • 臨床・食品・環境:QQQによる高感度ルーチン定量は引き続き基盤。

9. 分析者の視点 ― どこに効くか

  • プロテオミクスの深さ × スループット:Orbitrap Astral / Astral Zoom(nDIA)、timsTOF Ultra(dia-PASEF)。
  • 異性体・夾雑が多く m/z だけでは分けきれない:イオンモビリティ(timsTOF / TIMS、CCS軸)。
  • PTM局在・二重結合位置・トポロジー:解離法を選ぶ(EAD / ETD / UVPD / SID)。
  • 巨大・不均一なバイオ医薬(AAV、巨大複合体):ネイティブMS / CDMS。
  • 組織上の分布を見たい:MALDI-MSI / DESI(空間オミクス)。
  • 再現性の高いルーチン定量:QQQ(依然として臨床・食品・環境の主役)。

まとめ

  • MSの性能は分解能・質量精度・感度/スピード・ダイナミックレンジ・分離次元で測る。最新革新は「高分解能のまま高速・高感度」へ。
  • Orbitrap Astral30mの非対称トラック+ロスレス伝送(80%超)Orbitrap/Astral並列取得で、従来比約10倍>200 HzDIAで5倍Astral Zoomは走査35%高速・スループット40%・多重化50%・270 Hz300 SPDで約10万ペプチド/8,400+タンパク質
  • timsTOFTIMS/PASEF4D(保持時間×CCS×m/z×強度)dia-PASEFでほぼ100%サンプリング、Ultraは300 Hz。proteoformicsへ。
  • 解離法はEAD/ETD/UVPD/SIDへ多様化し、PTM・異性体・複合体トポロジーを読む。取得はDDA→DIA→狭窓DIA
  • ネイティブMS/CDMSメガダルトンを直接測り、AAV遺伝子治療の空/フル比などQCを支える。
  • MSイメージング/空間オミクス単一細胞解像度(~400 nm, ~7,800細胞/日)へ。マルチオミクス統合が進む。

次回以降、各機種の具体的応用(創薬プロテオミクスのnDIA実例、AAVの空/フル比評価、MALDIイメージングの病理応用、 脂質二重結合位置のEAD解析)を個別に深掘りしていきます。

用語集(クイックリファレンス)

  • m/z:質量÷電荷。MSが直接測る量。
  • 分解能 R = m/Δm:近接ピークを分ける能力。質量精度(ppm)は真値との近さ。
  • DDA / DIA / nDIA:取得戦略。DIAは網羅・再現性、nDIAは窓を細かくして深度向上。
  • Astral(ASymmetric TRack Lossless):30m級の非対称トラックとロスレス伝送で高速・高感度・高分解能。
  • TIMS / PASEF / CCS:トラップ型イオンモビリティ/並列蓄積逐次断片化/衝突断面積(形・大きさの軸)。
  • 4Dプロテオミクス:保持時間×CCS×m/z×強度の4特徴量。
  • 解離法(CID/HCD/EAD/ETD/UVPD/SID):イオンの壊し方。得られる構造情報が変わる。
  • ネイティブMS / CDMS:非変性で測る/単一イオンのm/zと電荷を同時測定し直接質量を得る(メガダルトン対応)。
  • 空間オミクス / MSI:組織上の分子分布を可視化(MALDI/DESI)。
  • TMT:同重体タグによる多重化定量。

出典

  • Grinfeld et al. ほか「Multi-reflection Astral mass spectrometer with isochronous drift in elongated ion mirrors」ScienceDirect — https://www.sciencedirect.com/science/article/abs/pii/S0168900223010173
  • 「Parallelized Acquisition of Orbitrap and Astral Analyzers Enables High-Throughput Quantitative Analysis」Analytical Chemistry — https://pubs.acs.org/doi/10.1021/acs.analchem.3c02856
  • 「Evaluating the Performance of the Astral Mass Analyzer for Quantitative Proteomics Using DIA」J. Proteome Res. — https://pubs.acs.org/doi/10.1021/acs.jproteome.3c00357
  • Guzman et al.「Ultra-fast label-free quantification … narrow-window data-independent acquisition」Nature Biotechnology (2023) — https://www.nature.com/articles/s41587-023-02099-7
  • 「Higher-Throughput Proteome Profiling … Orbitrap Astral Zoom」PMC — https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC12914409/
  • Meier et al.「Online Parallel Accumulation–Serial Fragmentation (PASEF) with a Novel Trapped Ion Mobility Mass Spectrometer」MCP — https://www.mcponline.org/article/S1535-9476(20)32012-0/fulltext
  • Bruker「timsTOF Ultra(300 Hz PASEF, VistaScan, dia-PASEF 4D-Proteomics)」 — https://www.biospace.com/bruker-launches-timstof-ultra-mass-spectrometer-with-transformative-sensitivity-300-hz-pasef-ms-ms-and-vistascan-for-enhanced-dia-pasef-4d-proteomics
  • 「Multimass Analysis of Adeno-Associated Virus Vectors by Orbitrap-Based Charge Detection Mass Spectrometry」Analytical Chemistry — https://pubs.acs.org/doi/10.1021/acs.analchem.4c05229
  • 「Combining Surface-Induced Dissociation and Charge Detection MS to Reveal Native Topology of Heterogeneous Protein Complexes」 — https://pubs.acs.org/doi/10.1021/jasms.5c00206
  • 「MALDI MSI Protocol for Spatial Bottom-Up Proteomics at Single-Cell Resolution」J. Proteome Res. — https://pubs.acs.org/doi/10.1021/acs.jproteome.4c00528
  • Ngai et al.「Highlight of Recent Advances and Applications of MALDI Mass Spectrometry Imaging in 2024」Analytical Science Advances (2025) — https://chemistry-europe.onlinelibrary.wiley.com/doi/10.1002/ansa.70016

注記:スペック・同定数・発表時期は各出典の発表・報告時点のもの。実条件(試料・カラム・前処理・装置設定)で結果は変わります。導入・手法検討時は最新のメーカー公式資料・査読論文で再確認してください。