質量分析計の選定相談で最初に出てくる質問は、たいてい「どれが一番高感度ですか」です。
これは、答えの出ない問いです。メーカーが公表している感度スペックは、測定化合物も、注入量も、ノイズの定義も違うからです。後述しますが、あるメーカーは「1 pg のレセルピンで S/N > 150,000:1」と書き、別のメーカーは「200 fg/µL を 5 µL で S/N ≥ 1,500,000:1」と書き、さらに別のメーカーは詳細スペックを公開していません。この3つを並べても優劣は出ません。
選定を決めるのは、もっと手前にある問いです。
測る対象は決まっているか。決まっているなら、それは今後も変わらないか。
ここが決まれば、装置の型はほぼ決まります。本記事では、まず原理から各質量分析計の性格を整理し、次にメーカー公式資料から拾った実際の公表スペックを並べ、最後にそのスペックの読み方――何が比較でき、何が比較できないか――を扱います。
この記事の読み方:1〜2節は原理と全体像で、入門者にも読めるように書いています。3〜5節は実際の公表スペックで、現場の分析者向けに数値を細かく扱います。6節がこの記事の核心(スペックの読み方)、7〜8節が目的別の選択と導入前の確認事項です。専門用語は初出時に短く補足します。
1. 選定を決める2つの軸

質量分析計の性格は、突き詰めると2つの軸で説明できます。
軸1:標的が決まっているか(ターゲット分析 vs ノンターゲット分析)。 測る化合物のリストが確定していて今後も変わらないなら、その化合物だけを通す装置が最も高感度・高精度になります。これがトリプル四重極(QqQ)の世界です。逆に、何が入っているか分からない、あるいは後から別の物質を探し直す可能性があるなら、全部を記録できる装置が要ります。これが高分解能精密質量(HRAM)の世界です。
軸2:必要なのは「量」か「同定」か。 濃度を正確に出したいのか、構造を決めたいのか。両者は装置に求めるものが違います。定量は広いダイナミックレンジと再現性、同定は質量精度と分解能を要求します。
この2軸で見ると、よくある「Orbitrapのほうが高級だから定量にも良いはず」という発想が成り立たないことが分かります。目的が違えば、上位機種が下位互換になるとは限りません。
2. 6種類の質量分析計 ― 原理から決まる性格

質量分析計は、イオンをどう分けるかで性格が決まります。
四重極(Quadrupole) は、4本の電極に高周波と直流を組み合わせて印加し、特定の m/z のイオンだけを通す「質量フィルタ」として働きます。分解能は原理的に高くありませんが(通常は 0.7 Da 幅程度のいわゆるユニット分解能)、連続的なイオンビームをそのまま扱えるため、飽和しにくく直線性が非常に良いという決定的な長所があります。
トリプル四重極(QqQ) は、この四重極を Q1・衝突セル・Q3 と3段に並べたものです。Q1 で前駆イオンを選び、衝突セルで壊し、Q3 で特定のフラグメントだけを通す――この組み合わせが MRM(多重反応モニタリング) です。2段のフィルタで化学ノイズを物理的に捨てるため、複雑なマトリックス中でも極めて高い S/N が得られます。定量の王道とされる理由はここにあります。
飛行時間型(TOF) は、同じ運動エネルギーを与えたイオンが m/z に応じて異なる速度で飛ぶことを利用します。スキャンせずに全 m/z を同時に取得するため高速で、分解能も四重極より桁違いに高い。Q-TOF は前段に四重極を置いたハイブリッドで、MS/MS を高分解能で取れます。
Orbitrap は、中心電極のまわりを周回するイオンの軸方向振動の周波数を測ります。周波数は非常に精密に測定できるため、質量精度と分解能が飛び抜けています。ただしイオンを溜めてから測る(トラップ型)ので、溜めすぎると空間電荷効果で精度が落ちます。分解能を上げるほど1スキャンに時間がかかるという原理的なトレードオフもあります。
イオントラップ は、イオンを閉じ込めて順次追い出すことで質量を分けます。MSⁿ(多段階の開裂)ができるのが最大の特徴で、構造解析に強い。ただし溜められるイオン量に限りがあり、ダイナミックレンジは狭くなります。
シングル四重極 は四重極1本。MS/MS はできませんが、LC の検出器として使うという割り切りなら、質量情報が付くだけでUV検出器より圧倒的に情報量が増えます。
イオン化法の選択(ESI/APCI/APPI)は別の軸です。アンビエントイオン化の最新動向や質量分析の最新動向も合わせてご覧ください。
3. 定量の王道 ― トリプル四重極(QqQ)の公表スペック
現行世代の QqQ が実際にどこまで来ているか、メーカー公式資料から拾います。
| 項目 | Thermo TSQ Altis Plus | Agilent 6495D |
|---|---|---|
| 質量範囲 | m/z 2–2010 | m/z 5–3000 |
| MRM 取得速度 | 最大 600 SRM/秒 | 最大 700 MRM transitions/秒 |
| 最小ドウェルタイム | — | 0.5 ms |
| ポラリティ切替 | 5 ms(信号安定化を含む電子的切替) | < 25 ms |
| 四重極分解能 | Q1・Q3 を 0.2 Da 幅(FWHM)まで調整可 | Unit 0.7 / Wide 1.2 / Widest 2.5 / Narrow 0.4 Da(m/z 5–1500) |
| 最大スキャン速度 | 15,000 amu/秒(2 Da FWHM時) | 18,700 Da/秒 |
| 質量安定性 | 24時間で ±0.1 Da 以内 | — |
(出典:Thermo PS66038-EN、Agilent 6495D 製品ページ。室温条件などの付帯条件は各原典を参照)
本記事に島津製作所の機種を載せていない理由:執筆時点で LCMS-8060NX の製品仕様ページに到達できませんでした(404)。二次情報には「最大 555 ch/秒の UF-MRM」「5 msec の正負イオン化切替」といった数値が流通していますが、メーカー公式ページで確認できなかったため本記事では採用していません。同社機を検討される場合は、営業窓口から最新のカタログを取り寄せてください。
読み取れることが3つあります。
1つ目:MRM の速度は 500〜700 トランジション/秒の水準に達している。 これは「多成分同時分析をどこまで詰め込めるか」に直結します。残留農薬のように数百成分を1メソッドで測る用途では、1ピークあたり十分なデータ点数(一般に10点以上が目安)を確保できるかが律速になるため、ここが効きます。Thermo は 30,000 の SRM を定義でき、時間分割 SRM に対応、Agilent は1メソッドあたり 40,000 を超えるイオントランジション(2014年の 6495 仕様書)と記載しています。
2つ目:ポラリティ切替時間はメーカー差が大きい。 Thermo TSQ Altis Plus が 5 ms を掲げるのに対し、Agilent 6495D は < 25 ms です。正・負イオンを1ランで切り替える分析(酸性・塩基性化合物が混在する多成分分析)では、この5倍の差がサイクルタイムに効いてきます。切替が多いメソッドほど、ここは実測で確認する価値があります。
3つ目:四重極の分解能は「上げられる」が、上げると感度が落ちる。 Agilent は Unit(0.7)/Wide(1.2)/Widest(2.5)/Narrow(0.4 Da)、Thermo は 0.2 Da まで絞れると明記しています。Narrow に絞るのは、同重体の妨害を切るための手段であって常用設定ではありません。実際 Thermo の感度スペックも「Q1 を 0.2、Q3 を 0.7 Da に設定して」と条件を明示しています。
ダイナミックレンジについては、Agilent の 6495 仕様書(2014)が > 6.0 × 10⁶ と明記しています。QqQ がトラップを使わない連続イオンビーム型で空間電荷制限を受けないことの帰結であり、6〜7桁というのは他の型では簡単には出せない数字です。検量線を広く引きたい規制対応の定量で QqQ が選ばれ続ける最大の理由がこれです。
4. 網羅と遡及 ― 高分解能精密質量(Orbitrap / Q-TOF)
一方、標的が決まっていない、あるいは後から探し直したい場合は高分解能が要ります。
| 項目 | Thermo Orbitrap Astral Zoom(Orbitrapアナライザ) | 同(Astralアナライザ) | SCIEX ZenoTOF 7600(Q-TOF) |
|---|---|---|---|
| 分解能(FWHM) | 7,500〜480,000 @ m/z 200(同位体忠実度は 240,000 まで) | 80,000 @ m/z 524(TMT HRモードで 100,000 @ m/z 138) | ≥ 42,000 @ m/z 956 |
| 質量精度 | 外部校正 < 3 ppm RMS/内部校正 < 1 ppm RMS(24時間) | 外部校正 < 5 ppm RMS(24時間) | 外部 < 2 ppm RMS/内部 < 1 ppm RMS |
| MS/MS 取得速度 | 最大 40 Hz(分解能 7,500 @ m/z 200 の設定時) | 最大 270 Hz | 133 Hz |
| 質量範囲 | m/z 40–6,000(BioPharmaオプションで 8,000) | m/z 40–6,000 | TOF で 40 Da〜40 kDa |
| ダイナミックレンジ | eDRモードでスキャン内5桁 | 単一マイクロスキャンで > 1,000 | インタースキャン5桁超/イントラスキャン4桁 |
| 感度スペック | MS/MS:50 fg レセルピン オンカラムで S/N 100:1、SIM:同 150:1 | — | Zenoトラップで MS/MS 感度 4〜20倍 |
(出典:Thermo PS003568(2025)、SCIEX ZenoTOF 7600 製品ページおよび技術概要 RUO-MKT-02-13053-B)
分解能と取得速度は表裏一体であることが、この表から読み取れます。Orbitrap は最大 480,000 という圧倒的な分解能を持ちますが、その MS/MS 取得速度 40 Hz は分解能を 7,500 まで落とした条件での数値です。周波数を精密に測るには時間がかかる――これは原理的な制約です。
そこで登場したのが Astral アナライザで、Orbitrap と並列に動作させることで分解能 80,000 を保ったまま 270 Hz という領域に届いています。仕様書には「6つのイオンパッケージを並列処理」と書かれており、Orbitrap で全スキャンを取りながら Astral で DIA の MS2 を取るという使い方が想定されています。
Q-TOF は別のアプローチで速度を稼ぎます。 SCIEX の Zeno トラップは、直交加速型 TOF の弱点である低いデューティサイクル(通常5〜25%しかイオンを使えない)を、衝突セル出口のリニアイオントラップでイオンを溜めてから放出することで解決し、全質量範囲で ≥90% のデューティサイクルを実現したと説明されています。結果として MS/MS 感度が 4〜20倍。「高分解能は定量に弱い」という通説が崩れつつあるのはこのためです。
なお、「高分解能なら遡及解析ができる」という利点は、装置スペックではなくデータの性質から来ます。 フルスキャンで全イオンを記録しておけば、数年後に新しい汚染物質が問題になったとき、保存済みデータから精密質量で抽出し直せます。MRM は事前に登録したチャンネルしか見ていないので、これができません。PFASのように規制対象物質が年々増える分野では、この差が決定的になります(PFAS分析の実務ガイド)。
5. シングル四重極という選択肢
見落とされがちですが、LC の検出器としてのシングル四重極は費用対効果が高い選択です。Thermo ISQ EM の仕様書から、実際の性能水準を見てみます。
| 項目 | Thermo ISQ EM(シングル四重極) |
|---|---|
| 質量範囲 | m/z 10–2000(ユニット分解能) |
| スキャン速度 | 最大 20,000 Da/秒 |
| ポラリティ切替 | 25 ms |
| 質量精度 | ≤ ±0.1 Da |
| 質量安定性 | ΔT ≤ 2 K の条件で 48時間にわたり 0.1 Da 以内 |
| SIM感度(HESI+) | 10 pg レセルピン、m/z 609.3 で S/N ≥ 400:1(RMS)、400 µL/min |
| SIM感度(APCI+) | 10 pg レセルピン、m/z 609.3 で S/N ≥ 1000:1(RMS)、400 µL/min |
| 検出器 | DynaMax XR、デジタルダイナミックレンジ ≥ 10⁷ |
| SIMスキャン数 | メソッドあたり無制限、最大 218 スキャン/秒 |
| 電源 | 100–240 VAC, 50/60 Hz(単相・通常のコンセント) |
| 質量・寸法 | 71.4 kg、52 × 42 × 91 cm |
(出典:Thermo Fisher Scientific「ISQ EM Single Quadrupole Mass Spectrometer」PS72809-EN)
注目すべきは最後の3行です。 電源は100–240 V の単相で足り、質量は 71.4 kg、卓上に収まる寸法。8節で見るように、高分解能機は 680 kg・専用電源2系統・温度変動 0.5 ℃/10分という世界ですから、設置のハードルがまったく違います。
性能面でも、SIM で S/N ≥ 400:1(HESI+、10 pg)、デジタルダイナミックレンジ ≥ 10⁷ は、ルーチン用途には十分な水準です。UV検出器では「ピークが出た/出ない」しか分からない場面で、分子量情報が付くだけで判断できることは大きく増えます。合成の反応追跡、分取のフラクション確認、原料の同一性確認といった用途で、MS/MS は要らないがマススペクトルは欲しい――そういう場面は現場に多くあります。
なお、この機種の仕様書は 2018年のものです。シングル四重極は成熟した技術で世代交代が緩やかですが、現行モデルの数値は各社の最新仕様書でご確認ください。
6. カタログスペックの読み方 ― ここが本題です

さて、本記事の核心です。メーカーの感度スペックは、そのままでは横並び比較できません。 実例で示します。
| メーカー・機種 | 感度スペックの書き方 |
|---|---|
| Thermo TSQ Altis Plus(ESI+) | 200 fg/µL レセルピン溶液を 5 µL 注入し、m/z 609.3 → 195.1 で S/N 最低 1,500,000:1(Q1=0.2、Q3=0.7 Da FWHM) |
| Thermo TSQ Altis Plus(APCI) | 同溶液・同トランジションで S/N 最低 100,000:1(Q1・Q3 とも 0.7 Da FWHM) |
| Agilent 6495(2014仕様書、ESI+) | レセルピン 1 pg オンカラム注入、m/z 609 → 195 で S/N > 150,000:1、ノイズは 1×RMS |
| Agilent 6495D(ESI+) | レセルピン 1 fg オンカラムで IDL 0.3 fg(Agilent Jet Stream・チェックアウトカラム・1290 Infinity III LC 使用時の新規システムに限る) |
| Thermo Orbitrap Astral Zoom | MS/MS:50 fg レセルピン オンカラムで S/N 100:1 |
| Waters Xevo TQ Absolute XR | 公開仕様は質量範囲 m/z 2–2048 まで。「詳細な性能仕様は担当営業へお問い合わせください」と明記 |
比較を妨げている要因が4つあります。
1. 注入量が違う。 Thermo は「200 fg/µL × 5 µL」(=1 pg 相当)、Agilent の S/N 仕様は「1 pg オンカラム」。ここは近いのですが、Orbitrap の 50 fg とは20倍違います。
2. ノイズの定義が違う。 Agilent は「ノイズは 1×RMS」と明示しています。RMS ノイズとピークトゥピークノイズでは、同じクロマトグラムでも S/N が数倍変わります。定義が書かれていないスペックは、そもそも比較できません。
3. 指標そのものが違う。 Agilent は近年 IDL(Instrument Detection Limit、機器検出限界) を前面に出しています。これは繰り返し注入の統計から求める指標で、S/N とは数学的に別物です。IDL 0.3 fg と S/N 1,500,000:1 は、換算できません。しかも Agilent の IDL 仕様には「特定のLC・カラムを使った新規システムに限る」という条件が付いています。
4. そもそも公開していないメーカーがある。 Waters は Xevo TQ Absolute XR のシステム仕様書で、イオン源・検出器・真空系・寸法まで詳細に書きながら、性能数値は「営業に問い合わせを」としています。カタログだけでの比較は原理的に不可能です。
では、どうすればよいか。 答えは1つしかありません。
自分の試料・自分のマトリックス・自分の目的化合物で、デモ分析(アプリケーションテスト)を依頼する。
このとき、全社に同じ試料と同じ受け入れ基準を提示することが要点です。「レセルピンで何対何」ではなく、「このマトリックス中のこの化合物を、この濃度で、RSD いくつ以内で」と指定する。そうして初めて数字が並びます。
なお、分解能と質量精度は感度よりは比較しやすい指標です。それでも「m/z 200 で 480,000」と「m/z 956 で 42,000」を直接比べることはできません。分解能は m/z に依存する(Orbitrap は m/z の平方根に反比例して低下する)ため、測定 m/z を揃えないと意味がないからです。表を読むときは、必ず「@ m/z いくつ」を見てください。
7. 目的別の選択

ここまでを踏まえて、実務の判断基準に落とします。
規制対応の定量(生体試料中薬物、残留農薬、残留溶媒、食品・環境の基準値監視)→ QqQ。 ICH M10のように検量線の直線性・真度精度が明確に規定される分野では、6〜7桁のダイナミックレンジと再現性が効きます。標的が告示や薬局方で決まっているので、MRM のブラインド性は欠点になりません。
スクリーニングと遡及解析(未規制物質、汚染物質の探索、ノンターゲット分析)→ 高分解能(Orbitrap / Q-TOF)。 全イオンを記録して後から精密質量で抽出し直せることが本質的な価値です。規制対象が増え続ける分野では、装置を買い替えずに過去データを再解析できます。
プロテオミクス・単一細胞解析 → Orbitrap(特に Astral 系)または Q-TOF(PASEF/Zeno系)。 ここは取得速度が律速になる領域です。Astral の 270 Hz、ZenoTOF の 133 Hz といった数字が直接スループットに変換されます。
構造解析・未知物質の同定 → 高分解能+多段階開裂。 精密質量から組成式を絞り、MSⁿ や電子活性化解離(EAD)で構造を詰めます。SCIEX の EAD は電子エネルギーを 0〜25 eV で連続的に調整でき、化学的な移動試薬を必要としないと説明されています。
ルーチンQC・反応追跡・分取確認 → シングル四重極。 MS/MS が要らないなら、投資も設置面積も運用負荷も一段軽くなります。
判断に迷ったときの原則を1つだけ挙げるなら――「5年後に測るものが変わっている可能性はどれくらいか」を見積もってください。変わらないなら QqQ、変わるなら高分解能です。
8. 分析者の視点 ― 導入前に確認すべきこと

性能以外で、稼働後に効いてくる項目があります。仕様書の後半に書かれていて、選定時に読み飛ばされがちな部分です。
設置条件と電力。 Orbitrap Astral Zoom を例に取ると、寸法 952 × 1962 × 1392 mm、質量 680 kg(データシステム・粗引きポンプ・オプションを除く)、平均消費電力 1,400〜1,500 W、発熱 約 5,200 Btu/hr。電源は 208/230 V 15/16 A を2系統(別ヒューズ) に加えてポンプ用とPC用が必要です。温度は 18〜27 ℃、湿度 20〜80%、そして温度変動は 10分あたり最大 0.5 ℃。この温度安定性要求は、既存のラボにそのまま置けるとは限らない水準です。
一方 TSQ Altis Plus は 680 × 760 × 840 mm、125 kg、発熱は本体 1,550 W(ドライポンプ込みのシステム全体で 3,400 W)。さらにシングル四重極の ISQ EM は 71.4 kg、52 × 42 × 91 cm、電源は 100–240 VAC 単相、動作温度範囲も 15–35 ℃ と幅があります。
680 kg・専用電源2系統・温度変動 0.5 ℃/10分 と、71.4 kg・通常コンセント・15〜35 ℃。 同じ「質量分析計」でも、必要なラボの設えはこれだけ違います。装置代の見積もりだけで判断すると、後から工事費と空調更新が乗ってきます。
ガス。 Orbitrap Astral Zoom は API 源用に純度 99.5% 以上の窒素を 15 L/min、さらに衝突セル用に水分・酸素とも 1 ppm 未満の超高純度窒素(99.999%)を要求します。TSQ Altis Plus は衝突ガスに 99.995% のアルゴン、シース/AUX/スイープガスに 99% 窒素で、最大消費量 約20 L/min(FAIMS装着時は約55 L/min)。窒素発生装置で足りるのか液体窒素が要るのかは、ここを読まないと分かりません。
データシステムとソフトウェアの継続性。 同一メーカー内でソフトウェアが共通かどうかは、教育コストに直結します。Thermo は Orbitrap Astral・Exploris・Tribrid・TSQ で同一のユーザーインターフェースを掲げており、Agilent は MassHunter 上での機器間メソッド移管を挙げています。複数台を運用する予定があるなら、この共通性は性能スペック以上に効きます。
よくある落とし穴を挙げます。
- カタログの S/N を横並びに比較する。 6節のとおり、注入量・ノイズ定義・指標が違います。同一条件のデモでしか比べられません。
- 最大分解能で常用できると思い込む。 分解能を上げれば取得速度が落ちます。実際のメソッドで使う分解能での速度を確認してください。
- MRM 速度の数字だけを見る。 最小ドウェルタイムと衝突セルのクリアランス時間(Agilent 6495 では < 1 ms)が伴わないと、実際にはチャンネル間のクロストークが出ます。
- 設置要件を後回しにする。 温度変動 0.5 ℃/10分、専用電源2系統、超高純度ガス――装置代より工事費のほうが効くことがあります。
- 「上位機種なら下位互換」と考える。 高分解能機は QqQ ほどのダイナミックレンジを持たないことが多く、規制対応の定量では QqQ が正解という場面は依然として普通にあります。
まとめ

- 選定を決めるのは「標的が決まっているか」と「量か同定か」の2軸。 標的が確定していて今後も変わらないなら QqQ、変わりうる/後から探し直すなら高分解能。上位機種が下位互換になるとは限りません。
- QqQ は依然として定量の王道。 現行世代で MRM 600〜700 トランジション/秒(Thermo TSQ Altis Plus 600 SRM/秒、Agilent 6495D 700 MRM/秒)、ポラリティ切替 5〜25 ms、ダイナミックレンジ > 6.0 × 10⁶(Agilent 6495)。トラップを使わない連続イオンビームであることが、この直線性の源です。
- 高分解能は「速度と分解能のトレードオフ」を並列化で解きつつある。 Orbitrap は最大 480,000 FWHM @ m/z 200 だが MS/MS 40 Hz は分解能 7,500 での値。Astral アナライザは 80,000 を保って 270 Hz、SCIEX は Zeno トラップでデューティサイクル ≥90%・MS/MS 感度 4〜20倍・133 Hz。
- カタログの感度スペックは横並び比較できない。 注入量(1 pg / 50 fg)、ノイズ定義(1×RMS)、指標そのもの(S/N と IDL)が違い、Waters のように性能数値を公開していないメーカーもある。分解能も「@ m/z いくつ」を揃えないと比較になりません。自分の試料で、全社に同じ受け入れ基準を提示したデモを行うのが唯一の解です。
用語集
- MRM/SRM(多重反応モニタリング/選択反応モニタリング):Q1 で前駆イオン、Q3 でフラグメントイオンを指定し、その組み合わせだけを測る手法。化学ノイズを物理的に排除できる。
- ユニット分解能:隣接する整数質量を分離できる程度の分解能。四重極では通常 0.7 Da 幅(FWHM)を指す。
- FWHM(半値全幅):ピーク高さの半分の位置での幅。分解能の定義に使う。
- HRAM(高分解能精密質量):Orbitrap や TOF のように、高い分解能と ppm オーダーの質量精度を持つ測定。
- ダイナミックレンジ:定量が直線性を保てる濃度の幅。スキャン内(イントラスキャン)と測定間(インタースキャン)で値が異なる。
- デューティサイクル:発生したイオンのうち実際に検出に使われる割合。直交加速型 TOF では通常5〜25%と低い。
- IDL(機器検出限界):繰り返し注入の統計から求める検出限界。S/N とは別の指標で、相互換算はできない。
- DIA(データ非依存的取得):前駆イオンを選ばず、m/z 範囲を一定幅の窓に区切って全イオンを開裂させる取得法。網羅性が高い。
- DDA(データ依存的取得):フルスキャンで強度の高い前駆イオンを選んで MS/MS する取得法。低存在量成分を取り逃しやすい。
- EAD(電子活性化解離):電子を用いた開裂手法。SCIEX の実装では電子エネルギーを 0〜25 eV で調整できる。
- 遡及解析(retrospective data mining):フルスキャンで保存したデータを、後年に新しい標的で再解析すること。高分解能でのみ実質的に可能。
出典
- Thermo Fisher Scientific「TSQ Altis Plus triple quadrupole mass spectrometer」製品仕様書(PS66038-EN) — https://www.thermofisher.com/us/en/home/industrial/mass-spectrometry/liquid-chromatography-mass-spectrometry-lc-ms/lc-ms-systems/triple-quadrupole-lc-ms/tsq-altis-triple-quadrupole-ms.html
- Thermo Fisher Scientific「Orbitrap Astral Zoom mass spectrometer」製品仕様書(PS003568, 2025) — https://documents.thermofisher.com/TFS-Assets/CMD/Specification-Sheets/ps-003568-lsms-orbitrap-astral-zoom-ps003568-na-en.pdf
- Agilent Technologies「Triple quadrupole LC/MS system, 6495D mass spectrometer」製品ページ公表スペック — https://www.agilent.com/en/product/liquid-chromatography-mass-spectrometry-lc-ms/lc-ms-instruments/triple-quadrupole-lc-ms
- Agilent Technologies「Agilent 6495 Triple Quadrupole LC/MS with iFunnel Technology」(5991-4704EN, 2014) — https://www.agilent.com/cs/library/specifications/public/5991-4704EN.pdf
- SCIEX「ZenoTOF 7600 system」製品ページ — https://sciex.com/products/mass-spectrometers/qtof-systems/zenotof-7600-system
- SCIEX「ZenoTOF 7600 system Technology overview」(RUO-MKT-02-13053-B) — https://sciex.com/content/dam/SCIEX/tech-notes/technology/ruo-mkt-02-13053-a/ZenoTOF-7600-system_Technology-overview_RUO-MKT-02-13053-B.pdf
- Waters「Xevo TQ Absolute XR」システム仕様 — https://www.waters.com/nextgen/us/en/products/mass-spectrometry/mass-spectrometry-systems/xevo-tq-absolute-triple-quadrupole-mass-spectrometry.html
- Thermo Fisher Scientific「ISQ EM Single Quadrupole Mass Spectrometer」製品仕様書(PS72809-EN, 2018) — https://assets.thermofisher.com/TFS-Assets/CMD/Specification-Sheets/ps-72809-isq-em-ms-ps72809-en.pdf
制作メモ:本記事は NotebookLM のディープリサーチを出発点としましたが、生成された比較表は採用していません。根拠を1件ずつ確認したところ、分析計ごとの分解能・質量精度・ダイナミックレンジの数値が、URLを持たない生成文書に帰属していたためです。本記事の数値はすべて、メーカーが公開している仕様書・製品ページ(PDF原文を含む)を編集側が直接取得して確認したものに置き換えてあります。公式ページに到達できなかった機種(3節の注記を参照)は、二次情報に数値があっても掲載していません。 付帯条件のある数値は本文中に条件を併記しました。仕様書には公表年が異なるものが含まれます(Agilent 6495 は2014年、ISQ EM は2018年、Orbitrap Astral Zoom は2025年)。スペックは改訂されるため、導入検討時は各社の最新資料をご確認ください。