FTIR のメソッドを書くとき、たいてい「分解能 4 cm⁻¹、積算 16回」のように設定を記録する。では、その 4 cm⁻¹ は何を保証しているのか。
これに一言で答えられないのは、答える側の理解不足ではない。分解能という言葉が、三つの層で違う意味を持っているからである。
- 光学の層:分解能は干渉計の光路差の逆数で決まる。ただし 1/OPD は上限であって、実際の値ではない
- データ処理の層:係数を決めているのはアポダイゼーション関数である。同じ鏡の移動距離でも、関数の選択で分解能は 0.68/L から 1.16/L まで動く
- 規制の層:薬局方の「分解能試験」は cm⁻¹ で書かれていない。ポリスチレンフィルムの二点間の吸光度差で定義され、しかも日本薬局方・欧州薬局方・USP・インド薬局方で合否基準がすべて違う
つまり「分解能 4 cm⁻¹」は、装置の設定値としては一意でも、それが何を分解できることを意味するかは一意ではない。
本記事は、この三層を順にほどく。あわせて、なぜ FTIR が分散型に取って代わったのか、なぜ ATR が主流になったのか、そして ATR 結晶をどう選ぶのかを、原典の数値で確認する。
4手法(FTIR・ラマン・UV-Vis・NIR)の使い分けと、ATR の潜り込み深さの全体像は 分光分析の全体像 で扱っているので、本記事は FTIR そのものの中身に絞る。
この記事の読み方
- 入門者:1〜2 節。FTIR が何をしている装置なのか。
- メソッドを書く人:3〜4 節が本題。分解能と S/N、アポダイゼーション。
- 公定法・査察に関わる人:5〜6 節。局方ごとの適格性評価基準の違い。
- ATR を使う人:7〜8 節。結晶の選び方。
- 急ぐ人:10 節のチェックリスト。
数値はすべて原典(メーカーの技術資料・薬局方対応の白書)を開いて確認している。裏が取れなかったものは制作メモで明示した。
1. FTIR は「波数ごとに測る」装置ではない

名前に反して、FTIR は赤外の波数を順番に走査していない。全部の波数を同時に測り、あとから計算で分けている。
中核はマイケルソン干渉計である。Newport の解説はこう説明する。
a beam splitter, a fixed mirror, and a mirror that translates back and forth, very precisely (ビームスプリッター、固定鏡、そして精密に前後へ並進する鏡)
光源からの赤外光をビームスプリッターで二手に分け、片方を固定鏡、片方を動く鏡へ送る。戻ってきた二つの光を重ね合わせると、鏡の位置に応じて強め合ったり弱め合ったりする。この光路差に対する強度の変化を記録したものがインターフェログラムであり、これをフーリエ変換するとスペクトルになる。
ここを押さえると、後の話がすべて素直に理解できる。測定しているのは光路差の関数であって、波数の関数ではない。波数軸は計算の産物である。だからこそ、次節以降の「分解能」も「アポダイゼーション」も、光路差の側の事情で決まる。
2. FT が分散型に勝った理由

かつての赤外分光光度計は、プリズムや回折格子で波長を分けてスリットを通し、一波長ずつ測っていた(分散型)。FTIR がこれを置き換えたのには、明確な理由がある。Newport の解説はこう挙げる。
多重化の利点(Fellgett の利点)
All the wavenumbers of light are observed at once (すべての波数の光が同時に観測される)
一波長ずつ順に測る代わりに全波数を同時に測るので、同じ時間で S/N が上がる。逆に言えば、同じ S/N なら短時間で済む。
スループットの利点(Jacquinot の利点)
FTIR instruments do not require slits (in the traditional sense) to achieve resolution (FTIR 装置は分解能を得るために(従来の意味での)スリットを必要としない)
分散型では分解能を上げるほどスリットを狭め、光量を捨てることになる。干渉計にはその制約がない。分解能と光量が直接には競合しないのが大きい。
波数精度(HeNe レーザー) 干渉計には、赤外光と並走する形で HeNe レーザーが組み込まれている。
A HeNe laser emits light with a wavelength which is known to a very high degree of accuracy. (HeNe レーザーは、きわめて高い精度で既知の波長の光を放つ)
この既知波長の干渉縞を数えることで、動く鏡の位置を正確に知る。波数軸の精度が、機械の工作精度ではなくレーザーの波長で担保される。装置ごとに波数がばらつかない理由がここにある。
なお、局方の適格性評価で「波数スケール」を確認するのは、この HeNe 基準が正しく効いているかを見る作業でもある(5節)。
3. 分解能は光路差の逆数 ― ただし 1/OPD は上限にすぎない
分解能を決めるのは、動く鏡がどれだけ動いたかである。Newport の解説は端的に書く。
the resolution limit is simply an inverse of the achievable optical path difference, OPD (分解能の限界は、達成できる光路差 OPD の単純な逆数である)
同解説は例も挙げている ―― 光路差 2 cm の装置なら 0.5 cm⁻¹。逆数そのものである。
ここまでは物理だが、実務で注意が要るのはここからである。1/OPD はあくまで上限であって、実際に得られる分解能はその値にならない。係数を決めているのは干渉計ではなく、次節で扱うアポダイゼーション関数である。島津製作所の資料が示す実測係数でいえば、同じ鏡の移動距離 L に対して分解能は 0.68/L(box-car)から 1.16/L(Gaussian)まで動く。同じ装置・同じ設定でも、処理関数の選択で 1.7 倍の幅がある。
実務上の含意は3つある。
- カタログの「最高分解能 0.5 cm⁻¹」を装置間で単純比較しない。どの条件・どの関数での値かを確認する必要がある
- 分解能を上げるほど測定時間が延びる。鏡を長く動かす以上、1スキャンに要する時間が増える
- 分解能を上げるほど S/N は不利になる。同じ時間なら積算回数が減り、かつ1点あたりに配分されるエネルギーが減る
「とりあえず高分解能で測る」が正しくないのはこのためである。固体や液体の凝縮相スペクトルはバンド幅が数十 cm⁻¹ あるので、4 cm⁻¹ で足りることがほとんどである。分解能が要るのは、回転構造が見える気体のような場合に限られる。
4. アポダイゼーション ― 側波を消すと、別のものが失われる

前節で「光路差は有限」と書いた。ここに、もう一つの落とし穴がある。
無限の光路差でフーリエ変換すれば理想的なスペクトルが得られるが、実際の鏡の移動距離は有限なので、インターフェログラムはどこかで打ち切られる。島津製作所の解説はこう説明する。
the moving mirror reciprocates through a finite distance, such that in practice this integration has to be cut off in a finite range (動く鏡は有限の距離を往復するので、実際にはこの積分を有限の範囲で打ち切らねばならない)
打ち切りをそのまま(box-car 関数で)行うと、鋭いピークの周りにリンギング(側波)が出る。同解説は具体的な大きさを示している。
Ripples are formed around a large peak […] the largest ripple after the peak is the adjacent valley, which has a depth of approximately 21 % peak height. (大きなピークの周りに波が生じる……ピークの後で最大の波は隣接する谷で、その深さはピーク高さのおよそ21%である)
ピーク高さの21%の偽の谷が立つ。これは無視できる大きさではない。定量にも、ライブラリ検索にも効く。
そこでインターフェログラムに重み付け関数を掛けて端を滑らかに落とす。これがアポダイゼーションである。島津の解説が挙げるのは box-car、三角、Happ-Genzel の3つで、結論はこうである。
Reducing the ripples implies a compromise between the resolution and peak height. Improving one makes the other worse. (波を減らすことは、分解能とピーク高さの間の妥協を意味する。一方を良くすれば、他方は悪くなる)
そして実務上の既定値も明示されている。
The Happ-Genzel function is normally used. (通常は Happ-Genzel 関数が使われる)
in cases where good resolution is required, such as gas measurements, the box-car function is used (気体測定のように良い分解能が必要な場合には box-car 関数が使われる)
同資料は、主要な関数を数値で並べた表も載せている。鏡の移動距離を L としたときの値である(分解能は「ピーク高さに対して2%のくぼみ」を分解の基準とした場合、リップルはピーク高さに対する割合)。
| アポダイゼーション関数 | 半値幅 | 分解能 | ピーク高さ | リップル |
|---|---|---|---|---|
| Box-car | 0.60/L | 0.68/L | 2.0L | −0.215 |
| Triangular | 0.88/L | 0.88/L | 1.0L | +0.045 |
| Happ-Genzel | 0.91/L | 0.89/L | 1.08L | −0.006 |
| Cosine | 0.82/L | 0.85/L | 1.27L | −0.067 |
| Lorenz | 0.71/L | 0.73/L | 1.26L | −0.055 |
| Gaussian | 1.17/L | 1.16/L | 0.79L | −0.000 |
この表が、本記事の主張をそのまま数字にしている。
- box-car と Happ-Genzel で、分解能の係数は 0.68/L と 0.89/L。同じ鏡の移動距離で、分解能に約1.3倍の差がつく(数値が小さいほど良い)
- 同じ二つで、リップルは −0.215 と −0.006。約36倍の差である
- ピーク高さは 2.0L と 1.08L。box-car のほうが約2倍高い
つまり box-car は分解能もピーク高さも最良だが、21.5%のリップルを引き受けることになる。Happ-Genzel はリップルを 0.6% まで潰す代わりに、分解能とピーク高さの両方を差し出している。「どちらを良くすれば他方が悪くなる」というのは、この表のことである。
ここが本記事の核心のひとつである。設定画面で「分解能 4 cm⁻¹」を選んでも、アポダイゼーションが Happ-Genzel か box-car かで、得られるスペクトルの見かけの分解能もピーク高さも変わる。同じ試料を別の装置で測って強度が合わないとき、疑うべき設定項目のひとつがこれである。
そして3節で触れた「1/OPD にならない」の正体もここにある。よく引かれる 0.9/L という係数は、既定の Happ-Genzel を使ったときの 0.89/L のことである。装置固有の値ではなく、選んだ関数の値である。
そしてメソッドに分解能だけを書いてアポダイゼーションを書かないと、その測定は再現できない。
5. 局方の「分解能」は cm⁻¹ で書かれていない

ここから規制の層に入る。
FTIR を公定法で使う場合、装置の適格性評価が要る。ところが薬局方の「分解能試験」は、cm⁻¹ の数値では書かれていない。使うのはポリスチレンフィルムである。
Agilent が主要薬局方への FTIR 適合をまとめた白書によれば、対象となる薬局方はいずれも NIST SRM 1921b にトレース可能な厚さ約 35 µm のポリスチレンフィルムの使用を推奨している。そのうえで、確認する性能パラメータはこうである。
- 波数スケール(波数精度):ポリスチレンの既知バンドの位置が許容範囲に入るか
- スペクトル分解能:ポリスチレンの特定の二点(極大と極小)の吸光度差または比が基準を満たすか
つまり局方が定義している「分解能」は、近接する二つのバンドの谷がどれだけ深く落ちるかであって、装置の設定値ではない。同じ「4 cm⁻¹」でも、アポダイゼーションや光学系の質が悪ければ谷は浅くなり、この試験に落ちる。局方の分解能試験は、設定値ではなく実際に出てくるスペクトルを見ている。
日本薬局方についてはもう一点ある。同白書はこう記す。
JP には、Ph.Eur.、USP、IP にはない 2 つのパラメータ(「透過率の再現性」と「波数の再現性」)に関する記述があります。
日本薬局方だけが再現性を2種類求めている。海外製ソフトの既定メソッドをそのまま使うと、この2項目が抜ける。
6. 同じポリスチレンで、局方ごとに合否が違う

さらに踏み込むと、同じフィルムを同じ装置で測っても、どの薬局方に従うかで合否の基準が違う。同白書が挙げる基準を並べる。
波数スケール/波数精度(透過測定モード)
| 薬局方 | 使用するポリスチレンのバンド | 許容範囲 |
|---|---|---|
| 欧州薬局方 2.2.24 | 906.6 / 1028.3 / 1601.2 / 3060.0 cm⁻¹ | ±1.0 cm⁻¹ |
| USP \<854> | ポリスチレンの複数のシャープなバンド。「最もよく選択されるバンドは 1601.2 cm⁻¹」。複数波数での測定は要件ではない | ±1.0 cm⁻¹ |
| 日本薬局方 2.25 | 3060.0 / 2849.5 cm⁻¹ ほか(906.6 cm⁻¹ は試験から除外) | ±1.5 cm⁻¹ |
| インド薬局方 | 1028.3 / 1154.5 / 1583.0 / 1601.2 / 2849.5 / 3060.0 cm⁻¹ | ±1.0 cm⁻¹ |
スペクトル分解能(透過測定モード)
| 薬局方 | 判定のしかた | 基準 |
|---|---|---|
| 欧州薬局方 2.2.24 | 2870 cm⁻¹ の極小と 2849.5 cm⁻¹ の極大の吸光度差 | > 0.33 |
| 1589 cm⁻¹ の極小と 1583 cm⁻¹ の極大の吸光度差 | > 0.33 | |
| 日本薬局方 2.25 | 約 2850 cm⁻¹ の最大吸収と約 2870 cm⁻¹ の最小吸収の差 | 透過率で 18 % |
| 約 1583 cm⁻¹ の最大吸収と約 1589 cm⁻¹ の最小吸収の差 | 透過率で 12 % | |
| インド薬局方 | 2870 / 2849.5 cm⁻¹ の吸光度差 | > 0.33 |
| 1589 / 1583 cm⁻¹ の吸光度差 | > 0.08 | |
| USP \<854> | 運転時適格性評価で必須なのは波数精度。分解能試験は必須要件として挙げられていない | ― |
読みどころは3つある。
- 日本薬局方だけが透過率(%)で書き、他は吸光度差で書く。単位が違うので、そのまま比較できない
- 欧州薬局方とインド薬局方は同じ 1589/1583 の組を使いながら、基準が 0.33 と 0.08 で4倍違う。インド薬局方のほうがゆるい
- 日本薬局方の波数許容は ±1.5 cm⁻¹ で、他の ±1.0 cm⁻¹ よりゆるい。ただし再現性2項目が追加される
そしてもうひとつ、欧州薬局方は透過モードと ATR モードで別の基準を持っている。同白書が示す ATR モードの分解能基準は、差ではなく比で書かれる。
| 欧州薬局方 2.2.24(ATR 測定モード) | 基準 |
|---|---|
| 約 2850 cm⁻¹ の極大と 2870.0 cm⁻¹ の極小の吸光度の比 | ≥ 1.15 |
| 約 1601.0 cm⁻¹ の極大と 1589.0 cm⁻¹ の極小の吸光度の比 | ≥ 1.30 |
波数スケールも ATR モードでは 906.1 / 1027.7 / 1601.0 / 3059.7 cm⁻¹ と、透過モードとわずかに違う値が使われる。ATR では光学的な理由でバンド位置がわずかにずれることを、基準の側が織り込んでいる。
実務上の結論はこうなる ―― 「装置は適格性評価済みです」という一文は、どの薬局方に対してかを言わないと意味を持たない。
7. ATR が主流になった理由と、その代償

いまの FTIR 測定の多くは ATR(全反射測定法)で行われている。理由は単純で、試料を結晶に押し付けるだけで測れるからである。粉も、フィルムも、ゴムも、液体も、前処理なしで数十秒で測れる。日本薬局方 2.25 も、臭化カリウム錠剤法・溶液法と並んで ATR 法を置いている。
代償も明確である。分光分析の全体像 で扱ったとおり、ATR が見ているのは表面の数 µmにすぎず、しかも潜り込み深さは波数に反比例するため、透過スペクトルとは相対強度が違う。Specac の資料は、ダイヤモンド/ZnSe・入射角45°・試料屈折率 1.5 で 1000 cm⁻¹ → 2.01 µm、2000 cm⁻¹ → 1.00 µm という実測値を示している。
したがって ATR で測ったスペクトルをそのまま透過法のライブラリと照合すると、一致率が上がりにくい。多くの装置ソフトが持つ ATR 補正は、この波数依存を補正して透過スペクトルに近づける処理である。ライブラリがどちらの方法で作られているかを確認してから検索するのが基本になる。
前節で見たとおり、欧州薬局方が ATR モードに別基準を置いているのも同じ事情による。
8. ATR 結晶は屈折率で選ぶ

ATR 結晶にはいくつかの材質があり、性格がはっきり違う。Specac の資料が示す主要な数値を並べる(潜り込み深さは同社の条件下の値)。
| 材質 | 屈折率(1000 cm⁻¹) | 使用できる波数範囲 | 潜り込み深さ | 実効光路長 |
|---|---|---|---|---|
| ダイヤモンド | 2.4 | 7800〜400 cm⁻¹ | 2 µm | 4.36 µm |
| ZnSe | 2.41 | 7800〜500 cm⁻¹ | 2 µm | 2.83 µm |
| ゲルマニウム(Ge) | 4.00 | 5500〜480 cm⁻¹ | 0.7 µm | 0.52 µm |
| シリコン(Si) | 3.41 | 8000〜1350、500〜33 cm⁻¹ | 0.9 µm | 0.98 µm |
選択の論理はこうなる。
なぜ屈折率が効くのか。ATR は全反射を使うので、結晶の屈折率が試料の屈折率より十分大きい必要がある。試料の屈折率が高い(黒色ゴム、カーボンを含む樹脂、無機材料など)と、ダイヤモンドや ZnSe(n ≈ 2.4)では全反射が成立せず、スペクトルが歪む。このとき n = 4.00 のゲルマニウムに替えると測れるようになる。
なぜ Ge は表面をより浅く見るのか。潜り込み深さは結晶の屈折率が大きいほど小さくなる。Ge の 0.7 µm はダイヤモンドの 2 µm よりさらに浅く、表面の薄い層だけを見たいときに有利である。逆に、強く吸収する試料でピークが飽和してしまう場合にも Ge が効く。
材質ごとの実務上の制約も Specac が明示している。
- ダイヤモンド:「きわめて耐久性の高い材質で、優れた機械的・化学的耐性を持つ」。既定の選択肢
- ZnSe:「点荷重に弱い」。また 試料の pH は 5〜9 の範囲に保つべき(酸・アルカリで侵される)
- ゲルマニウム:「高温では光学的に不透明になるため、加熱を伴う用途には適さない」
- シリコン(Arrow 型):薄いウェハーで「荷重に耐えられないため、液体の測定にしか使えない」
波数範囲も見落とせない。無機物の骨格振動を見たいときに 500 cm⁻¹ より低波数が要るなら、ZnSe(500 cm⁻¹ まで)では届かず、ダイヤモンド(400 cm⁻¹ まで)が要る。シリコンは 1350〜500 cm⁻¹ の間に自身の吸収帯があり、指紋領域の中央が使えない。
9. 透過法・臭化カリウム錠剤法が残る場面

ATR がこれだけ便利でも、透過法が消えないのには理由がある。
- 薄い層しか見ていない ATR では、内部の情報が取れない。バルクの組成を代表させたいとき、透過法が要る
- 微量試料。ATR は結晶面に密着させる面積が必要だが、透過法(とくに顕微 FTIR)は微小な試料に向く
- 公定法の指定。日本薬局方 2.25 は臭化カリウム錠剤法・溶液法・ATR 法を規定しており、各条で方法が指定されていればそれに従う
- 既存ライブラリとの整合。多くの標準スペクトルは透過法で取得されている(7節)
一方で臭化カリウム錠剤法には固有の難しさがある。KBr は吸湿性が高く、水分が入れば 3400 cm⁻¹ 付近と 1640 cm⁻¹ 付近に水のバンドが乗る。粉砕が粗ければ散乱でベースラインが傾く。「前処理がいらない」という ATR の利点は、裏返せば「錠剤法の技量差がなくなる」という利点でもある。
10. 実務チェックリスト

A. メソッドを書くとき 1. 分解能だけでなくアポダイゼーション関数も記録する。書かなければ再現できない(4節) 2. 分解能は目的から決める。凝縮相なら 4 cm⁻¹ で足りることが多い。上げれば時間と S/N を失う(3節) 3. カタログの分解能を装置間で比較しない。定義が違う(3節)
B. 適格性評価をするとき 4. どの薬局方に対する適格性かを明記する。基準が違う(6節) 5. 日本薬局方なら「透過率の再現性」「波数の再現性」が要る。海外製ソフトの既定メソッドでは抜けやすい(5節) 6. ATR モードで使うなら、ATR モードの基準で評価する。欧州薬局方は透過と ATR で別基準(6節)
C. ATR で測るとき 7. 試料の屈折率が高いなら Ge(n = 4.00)を検討する(8節) 8. 低波数が要るなら結晶の波数範囲を確認する。ZnSe は 500 cm⁻¹ まで、シリコンは指紋領域中央に自身の吸収がある(8節) 9. 酸・アルカリ試料に ZnSe を使わない(pH 5〜9)。加熱測定に Ge を使わない(8節) 10. ライブラリ検索の前に、そのライブラリが透過法か ATR かを確認し、必要なら ATR 補正をかける(7節)
まとめ
- FTIR は波数を走査していない。光路差の関数(インターフェログラム)を測り、フーリエ変換で波数に直している(1節)
- FT が勝ったのは Fellgett(全波数同時測定)と Jacquinot(スリット不要)、そして HeNe レーザーによる波数精度(2節)
- 分解能の上限は 1/OPD(光路差 2 cm なら 0.5 cm⁻¹)。だが実際の係数はアポダイゼーション関数が決める(3節)
- 打ち切りによる側波はピーク高さの約21%(box-car のリップルは −0.215)。Happ-Genzel は −0.006 まで潰すが、分解能は 0.68/L → 0.89/L、ピーク高さは 2.0L → 1.08L に落ちる。よく言われる 0.9/L は Happ-Genzel の 0.89/L のことであって装置固有の値ではない(3〜4節)
- 薬局方の「分解能」は cm⁻¹ ではなく、ポリスチレンの二点間の吸光度差/比で定義される(5節)
- 同じフィルムで局方ごとに合否が違う。欧州とインドは同じ 1589/1583 の組で 0.33 と 0.08、日本は透過率18%/12%で単位すら違う。日本薬局方だけが再現性2項目を持つ(6節)
- 欧州薬局方は透過と ATR で別基準を持ち、ATR では差ではなく比(≥1.15、≥1.30)で判定する(6節)
- ATR 結晶は屈折率で選ぶ。高屈折率試料には Ge(n = 4.00、dp 0.7 µm)。ZnSe は pH 5〜9、Ge は加熱不可(8節)
用語集
- インターフェログラム:干渉計の光路差に対する検出器信号の変化。フーリエ変換するとスペクトルになる。
- 光路差(OPD):干渉計の二つの光路の長さの差。分解能はこの逆数で決まる。
- Fellgett の利点(多重化の利点):全波数を同時に測ることで、同じ時間で S/N が上がる利点。
- Jacquinot の利点(スループットの利点):分解能のためにスリットで光量を捨てる必要がない利点。
- アポダイゼーション:有限で打ち切ったインターフェログラムに重み付け関数を掛け、側波(リンギング)を抑える処理。分解能とピーク高さのトレードオフを伴う。
- Happ-Genzel:一般に既定として使われるアポダイゼーション関数。
- box-car:重み付けをしない(打ち切りをそのまま扱う)関数。分解能は最も高いが側波が大きい。
- ATR(全反射測定法):高屈折率結晶の内部で全反射させ、しみ出したエバネッセント波で試料表面を測る方法。
- 実効光路長:ATR で得られるスペクトルを透過法の光路長に換算した長さ。潜り込み深さとは別の量。
- ポリスチレンフィルム:薬局方の適格性評価で標準として用いられる薄膜。NIST SRM 1921b にトレース可能なもの、厚さ約 35 µm が推奨される。
出典
- Agilent Technologies「FTIR を用いた医薬品分析:薬局方への適合」ホワイトペーパー(5994-2339JAJP) — https://www.chem-agilent.com/appnote/pdf/low_5994-2339JAJP.pdf
- 島津製作所「Fourier Transform and Apodization」(FTIR Tips and Tricks) — https://www.shimadzu.com/an/service-support/technical-support/ftir/tips_and_tricks/apodization.html
- 島津製作所「FTIR TALK LETTER Vol.15」(Fourier Transform and Apodization / Appendix: Major Apodization Functions) — https://www.shimadzu.com/an/sites/shimadzu.com.an/files/pim/pim_document_file/journal/talk_letters/13258/jpa212011.pdf
- Specac Ltd「Choosing the right ATR crystal for FTIR analysis」 — https://specac.com/theory-articles/choosing-the-right-atr-crystal/
- Specac Ltd「Depth of penetration for ATR measurements」 — https://specac.com/theory-articles/depth-of-penetration-for-atr-measurements-2/
- Newport Corporation「Introduction to FTIR Spectroscopy」 — https://www.newport.com/n/introduction-to-ftir-spectroscopy
制作メモ:ディープリサーチで収集した資料を出発点に、編集側でメーカーの技術資料と薬局方対応の白書を開いて検証のうえ執筆した。
注記と限界:(1) 薬局方の判定基準は、薬局方の原文ではなく Agilent の薬局方対応白書に記載された値を引用している。日本薬局方 2.25 の条文 PDF は PMDA のリンクが 404 のため取得できなかった。実務で使う際は必ず各薬局方の原文にあたること。(2) 初稿では「0.9/OPD を分解能の定義に採るメーカーがある」と書いたが、この記述は裏が取れなかったため取り下げ、島津の FTIR TALK LETTER Vol.15 が示すアポダイゼーション関数ごとの係数表に差し替えた。よく引かれる 0.9 という係数は、既定の Happ-Genzel の 0.89/L に由来する。装置間比較の際は、当該メーカーの仕様書でどの関数・どの条件での値かを確認すること。(3) 拡散反射法(DRIFTS)と Kubelka-Munk 変換、鏡面反射と Kramers-Kronig 変換、顕微 FTIR、大気中の水蒸気・CO₂ の補正については、原典を確認できなかったため本記事では扱っていない。(4) ATR 結晶の潜り込み深さと実効光路長は Specac が示す条件下の値であり、入射角・試料の屈折率が変われば変わる。